[百人一首]70 さびしさに~

さびしさに 宿をたち出でて ながむれば
いづこも同じ 秋の夕暮

あまりの寂しさになんだかたまらなくなって、
立ち上がってこの粗末な家から外に出て、あたりを見渡すと
どこも、同じなんだなあ、秋の夕暮れは

良暹法師
良暹法師(りょうぜんほうし)は素性もはっきりしていない
ただ、色々な歌集で取り上げられ、結構人気者だったかも知れません。
「袋草紙」という本にこういう話がある
源俊頼が友人と大原へ遠乗りに行ったとき、急に馬を降りた。

どうしたどうした
ここは良暹法師が元に住んでいた場所じゃないか
馬に乗ったままなんて、そんな失礼なことできないよ
そうだそうだとみんなも馬を降りた。

古今集にこんな歌がある
ほととぎす なが鳴く里の あまたあれば
なほ疎まれぬ 思ふものから

ほととぎすよ、お前が鳴く里が多いものだから
お前のことは愛しているのだけど、いやになるときもあるんだよ。

良暹法師はあるとき、ほととぎすを詠んで
宿近く しばしながなけ ほととぎす
今日のあやめの 根にもくらべむ

その時にいた懐円というお坊さん
へーえ、ほととぎすは長鳴くのかねえ。ホトトーと引っ張ってギースと鳴くのか

そこで良暹法師が
ほととぎす なが鳴く里の の歌を持ち出した。

そりゃねえ、長鳴くじゃなくて「汝が鳴く」おまえが鳴くってことだよ。
一堂大笑い。

わちゃー、やってもうた。
顔から火が出ます。
まるっきり長鳴くとばかり思っていた。

うさぎ追いしかの山~
をうさぎが美味しいと思っていたようなもんですね。

鑑賞
前回の能因法師から3つ、秋の歌が続きます。

秋の夕暮れ、は定番中の定番
枕草子でも、春はあけぼの、で秋は夕暮れ

後の 「新古今集」には、三夕の歌として知られる秋の歌がある。

寂しさは その色としもなかりけり 真木立つ山の 秋の夕暮れ 【寂蓮】
(寂しいのはその色のせいではない。山には青々した木が茂る、この秋の夕暮れよ)

心なき身にもあはれは 知られけり 鴫(しぎ)たつ沢の 秋の夕暮れ 【西行】
(情を解さない私でもしみじみとした趣がわかる、鴫が飛び立つ水辺の、秋の夕暮れよ)

見渡せば 花も紅葉も なかりけり 浦の苫屋の 秋の夕暮れ 【藤原定家】
(見渡してみると、花も紅葉もないことだなぁ、海辺の苫ぶき小屋の、秋の夕暮れには)

いずれも寂しさを美しく詠んでいる。
だけれども、これらの歌と、良暹法師の歌はなんか違う。

よくよく考えると
良暹法師の歌には具体的なものがなにひとつ出てこない。

百人一首を始めとした和歌の世界は、恋だったり、情景だったり

この歌は何だろうか
哲学に近いものすら感じる。

寂しい。いたたまれない。
世捨て人となって久しいのに、この寂しさは何だろう。

ああもうだめ。

外に出てみたのに
そこにあったのは秋。

あっちから、こっちまで
秋の夕暮れ

寂しさは同じ
世の中に一様に

寂しくても
良いのかも知れない
この世の中の寂しさと
同じ寂しさの中にいたのか

浸って
味わって
寂しさの中の一人

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