言挙げせじという生き方

神道の「言挙げせじ」について前回書きました
[巫女さん入門]神道の特色

これはおそらく大きく二つに分かれるんじゃないかと思います。

そうだそうだ、という人と
それは、逃げだ、その生き方はおかしいという人と

生き方
このテーマ何度か、視点を変えながら書いてきた気がします。

私の中ではかなり大きなテーマなんです。

私の波瀾万丈の人生を読んでいただいた事のある人なら
実感として分かっていただけるんじゃないかと思うんですが

ずっと、言挙げする生き方で生きてきました。

「正しいか正しくないか」は私の中でかなり大きな判断基準だった。

でも、ダイエット以降だから3年前以降というごく最近から
ガラッと価値観が変わってしまった。

言挙げせじ、に180度変わってしまった。

言いたい事は、
言挙げせじの方が良い、ということではありません。

両方の生き方があるということを認めませんか、ということ。
両方というより、色んなという方が良いかな。

結局のところ、生き方なんで誰にとやかく言われることでもなく
人生を生きてきて、自分で探っていくもの。

少しこんなふうにやってみた、
ああきつい
ここはやっぱり半分くらい元のやり方に戻そう
って感じ。

私は、言挙げする生き方が辛かった。
面白かったから微塵の後悔も無いんだけど
やっぱり言挙げせじの生き方の方が自分には合っているんだって
この歳になって、ようやく分かった。

元々、日本アバウト党の党首をやっていたのは
若いときからだから
テキトーでいい加減な生き方の方が自分には合っている。
自分に甘くて人にも甘い
基本はそういう生き方のはずなのに

自分が人から攻撃された途端、スイッチが入ってしまう。
クンってね

頭の中で理屈が渦巻き
相手を言い負かすための応酬問答が頭の中を席巻してしまう。
ああ嫌だと自分でも思っているんだけど
自分ではそのまましまっているつもりなのに
出ちゃっているらしい。

お陰で何度も会社を変えた。

結局、言挙げして議論して
じゃあその「正しい」やり方に変えて、
ってことが一度もないんです。

その時は相手が折れて、
分かったってなるのに
そのあといつまでたってもそうは変わらない。
だから、言ったよね
そうするって言ったよね

イライラする

自分の人生を一生懸命振り替えるんだけど
やっぱりうまく行ったことなんて一度もないんです。

結局人の行動って
正しいか正しくないかなんて
どうでも良くて

感じの悪いあいつの言っていること、か
感じの良いあいつの言っていること、か
どっちかで、
頭じゃなく、体が反応しちゃうんじゃないかな

言挙げする人
周りに言挙げしている人がいたら
自分がそうだったから
すごく気になっちゃう。

キツくないか、辛くないか、って
そればかりが気になる

なんだか辛そうだと
もうちょっと楽に生きれるのになあって

ただ、自分もそうだったけど
他人から指摘されて、生き方変えるなんて、絶対にないから
まあ、ええんちゃうのん
としか言わないんだけどね

そういう人って私の存在ややり方がムカつくらしい
白黒ハッキリさせて、言うべきことは言わないとダメじゃないですか
って

そこでも
まあ、ええんちゃうのん
としか言わないんだけどね

生き方やり方なんて十人十色

よく
あんなことしていると今につまづくよ
とか陰で言うわけだけど
そうかもしらん
そうじゃないかもしらん

その時にどう思うかって
その人にしか分からないし
その人がその時の価値観で決めれば良い。

それが例え自分の子供でもそうだと思っている

強制、指摘、説教、アドバイス
何一つしたことがない超放任主義

図書館から借りた本を返さないという性癖のある長女には
それは返せ、とだけは言ったかな。

もし、万が一子供が何らかの罪を犯したら
被害者の人に私も一緒に一生かけて償おうと
その覚悟は持っているけどね。
そこはやっぱり、超放任主義とはいえ家族ですから

家族ではない他人であれば
全くの不干渉
それでいいんじゃないかと思う。

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