長州ファイブと薩摩スチューデント。ひと足早い薩長連合。

江戸検定受験で合格を祈念して
幕末ネタをひとつ。
江戸検定の今年のお題の教科書「疾走!幕末・維新」から

留学
この前、榎本武揚の話でオランダに留学したと言いました。
そこをもうちょっと補足しますね。

時代の変化に対応すべく、日米和親条約のすぐあと、老中阿部正弘が長崎に長崎海軍伝習所を作ります。
安政2年(1855年)
オランダ人が先生で幕臣70名、諸藩から129名
まだこの頃は一緒に頑張ろうと思ってたのね
幕臣でいうと勝海舟、榎本武揚、
薩摩藩からは五代友厚
びっくりポンのディーン様ですね

1年3ヵ月後には、オランダにもらった観光丸を生徒が自分達だけで運転して、江戸の築地へ
築地に新たに軍艦教授所を作ったからです。

このあたりから幕府は警戒し出します。
築地では生徒は幕臣のみに限定。

続いて、九段下に「蕃書調所」(ばんしょしらべしょ)という洋学の学校
安政3年(1856年)に開校です。
最初は、幕臣のみ、2年後には諸藩もオッケー
これ、後に開成所と名前を変え、さらに変遷を経て東京大学になります。

儒教の昌平坂学問所をしのいで、幕府の教育機関の中心になります。

留学
そんな背景を経て、文久2年(1862年)初めて留学というのが企画されます。
軍艦操練所から、榎本武揚等
蕃書調所から西周(にしあまね)や津田真道(つだまみち)
長崎養生所から伊東玄伯(げんぱく)と林研海(けんかい)
色んな目的で勉強しにいきましょう。

長州
留学は、勝海舟の幕府が結構何度か行かせているんだけど
あくまでも海外渡航は禁止
行きたければ幕府に言ってみてね。

長州としては、
いやあ、幕府に匹敵する力を付けたいもんで留学させたいんです
って言える訳ない
となると、内緒で密航させようってことになる。
数人を秘密で留学させるんだけど
その時期がすごい
イギリス人のガワーに斡旋してもらってロンドンに行くんだけど
文久3年(1863年)の5月12日に出発

幕府に「攘夷を実行せい」
何ぐだくだやってる
わしら単独でもやっちゃると攘夷を単独で実行したのが
何とその2日前の5月10日。
イギリスの船に大砲ぶちこんでます。

二重人格でしょうか
絶対見間違いと思って何度も見返したんですけどね
イギリス人も、どうなんよ
アンビリーバボー、ストップストップ
って言わんかったんやろか

この留学極秘中の極秘で藩主と本人たちとほんの数人しか知らなかった。
攘夷をやった中心の人達は知らなかったということなんでしょうけど
かえすがえすも、藩主もイギリス人も、偉いんだかどうなんだか

ここで留学に行った5人は、長州ファイブと言われ
明治政府の中心中の中心
井上聞多(井上馨)、遠藤謹助、山尾庸三、伊藤俊輔(伊藤博文)、野村弥吉(井上勝)

あまりに極秘だったもので、表だってお金が工面できない。
いくらなんでもこれくらいの金額じゃ
そこで頼りになったのがあの大村益次郎
この時は江戸にいたんだけど
任さんかいっ
とお金を工面してくれた。

薩摩藩
程なくして、薩摩藩も同じようなことを考えます。
こっちは、もちろん幕府には内緒なんだけど
藩の中では、オーソライズされています。
資金も潤沢に用意されました。

薩摩スチューデントと呼ばれます。
有名なひとで言うと、五代友厚
また出たっ、ディーン様

行き先は同じくロンドン。

同じ場所なので、当然ばったり

この時、まだ薩長連合なんてかけらもなく
一番いがみ合っていた頃

おのれぇ
ここで会ったが百年目
いざ覚悟

になりそうなもんですが
まあまあ、お互いはるばる来たわけですし。
一杯行きますか

ってことで
スコッチ傾けながら、腹割って話し合う。

結局、藩だ立場だ、言ったところで
お互い日本の将来を真剣に考えている人間どおし

かんぱーい

気が合いますなあ
近い将来、一緒に何かを成し遂げそうな気がしてきましたわ。

ここ、試験に出ないかなぁ

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