間宮林蔵。樺太は島である。

江戸の理系力シリーズ

今度は測量に参りましょう。

伊能忠敬はやっちゃったから
となると、この人ですね。

あら、やってませんでしたっけ、って感じ

間宮林蔵
まみやりんぞう 測量探検家 1775~1844

常陸国(ひたちこく=茨城県)の貧農の子に生まれた
子供の頃から算術が大好き。周囲を驚かせます。

林蔵の家の近くに小見川というのが流れていて
その数ヵ所に幕府が堰を作り、その水を灌漑用水として利用する工事をします。

林蔵16歳の時、工事を手伝うことになり、幕府役人に
距離や面積の算出法、堤の築き方についての意見を述べた。

何、こいつ、そんな事をなんで分かるんだろう
まあ良いや、ちょっとやってみたらすぐに分かること。

その通りやってみたら、ぴたっぴた。

幕府の普請役(今の建設省)村上島之丞(しまのじょう)の耳に入ります。

江戸に来い

島之丞の配下となり、その後25歳の時に
島之丞に従って、蝦夷の地へ渡ります。

そして、そこで
その時、蝦夷に滞在していた、伊能忠敬と運命の出会いです。

この熱心な若者こそが
私の後継者となるだろう。

持てる全てを、林蔵に伝えていきます。

そして、34歳の時、文化5年(1808)松田伝十郎とともに樺太(からふと)に渡ります。

唐突に出てきましたね、松田伝十郎
松田伝十郎は誰かというと、越後の貧農の子として生まれ
たまたま、道路工事中に監督の幕府役人に見込まれ、養子になっています。

似たような境遇の人がいたもんです。

少し前の1792年、ラクスマンが根室に来航して通商を要求
慌ただしくなってきたので
それまで、松前藩に「北の事は任したよ」と言っていたのに
蝦夷を直轄にしていた。

特に樺太が島なのか半島なのかは国防上とても重要
林子平は1786年に「三国通覧図説」の中で半島だとしているので
おそらく半島なんじゃないかなぁ

実は、ロシアも樺太が島なのか半島なのか分かっていなかった。
間宮林蔵が樺太に渡る4年前、ロシア使節レザノフが長崎に来航
帰り際に、樺太を測量したんだけど
島なのか半島なのかを特定できずにあきらめて帰っている。

林蔵と、伝十郎。
君達の出番だぞ!

樺太測量
僕は東から回るから、伝さんは西から回ってもらって良い?

ノテトまでたどり着き、対岸を確認
さあ、この間の海が北までストンと抜けた海なのか途中で行き止まりで地続きになるのが
もうちょっとだったんだけど
自然環境があまりに厳しくやむ無く撤退

意気消沈かと思いきや

うん、もうちょっとだぞ
よっしゃもう一回

一ヶ月後にはもう再出発
とはいえ、もう9月で厳しくなる一方
最初の方の、トンナイで冬を越す

前回来たノテトまで来たのが4月になっていた。
さあ問題はここから

島だとしたら、北の端っこがあるはず
ナニオーに到着
現地の少数民族、ギリヤーク人に案内を頼んでいたんだけど
これより北は危険すぎるんで絶対だめ!

あとから地図を見ながら追っている我々としては
もうちょっとよ。もうちょっとでくりっと右側に
とか思うけど、地べたにいる本人たちには分かりませんからね

また断念か
でも、対岸のアムール川の河口が見え
流れ出る水が南北に分かれて海流になっている
これは、島であると断定して良かろう

帰るかな、もうちょっといようかな
と、うだうだしているとき
とても良い話を聞いた。
ギリヤークの首長が対岸まで交易に出掛けるとのこと

ラッキー、うだうだしててよかった

船に、乗せてもらって海峡を渡る
交易のなされている様も目撃し
あちこち行ってから戻る

1年半の大冒険でした。
この時の測量は、伊能忠敬の地図に追加されることになり
後に、シーボルトはこの海峡を間宮海峡と名付けるのです。

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