北海道と言えば、最上徳内と近藤重蔵

間宮林蔵の話はしました
間宮林蔵。樺太は島である。

北海道と言えば、まだいるんですね

最上徳内
もがみとくない 探検家 1754~1836

とくない くまなく のとくない?
いえ、それは都区内

貧しい農家に産まれた徳内だったけど勉強大好き。
長男にもかかわらず、家のことを弟たちに任せて勉学に励んだ。

ある時、田沼意次の企画した、蝦夷地探索に参加することになります。
田沼意次は、早くから、北の国防を重要視していたからね。

アイヌ、ロシア人と交友関係を深めた数少ない人物です。
国後、択捉にまで渡ります。

ところが、それを快く思わない人がいました。
松前藩です。

松前藩は、蝦夷のアイヌとの貿易を一手に任されていた藩なのですが
貿易とは名ばかりで
アイヌの人達を奴隷のごとく扱っていた。

松前藩にとっては、危険人物なので
なんだかだと理由をつけて、徳内を牢に入れてしまいます。
さすがに全くの無実なので釈放せざるを得なくなるんですがね

近藤重蔵
こんどうじゅうぞう 探検家 1779~1829

近藤重蔵は、貧しい武士の家に産まれ、幼い時から、超天才。

17歳で「白山義学」という私塾を作ってしまう。
もう一回言います。17歳です。

その後、松平定信の時代に行われた官僚になるための試験で、最優秀成績で合格する。
その時合格したのは3人。
あの遠山金四郎(当時43歳)もいました。
その時、近藤重蔵は、26歳

当時にわかに、ロシアの船が出没するようになり
重蔵は、蝦夷について強く関心を持ち、幕府に論文を提出

幕府としても一番の関心事。

それなら、蝦夷、調べてきて

重蔵ほどの天才なら
江戸城勤務でも何をやらせても大出世出来るだろうに
敢えていばらの道を選んじゃいましたね。
江戸城勤務だと楽なのに、えらい役割を言いつけられちゃいました。

面白い男を紹介するよ

最上徳内との運命的な出会い。

徳内としては、蝦夷に関しては既に専門家
そんな若い上司の元でやれるか
とは、ならないですね。

強い志を持つ男同士ががっぷり四つ

寛政10年(1798)に蝦夷地調査団
二人は共に、北へ

そして、徳内と懇意にしているアイヌの人達の案内で択捉に渡りました。

択捉島に「大日本恵登呂府」という柱まで立てちゃいます。
ここは日本ですよ、って宣言。

なかなかの自己主張だと思いますが
その柱にさらに何を書いたと思います?
名前です。
一緒に来てくれたアイヌの人達の名前。

日本ですよ、は
同時にアイヌの人達の土地ですよ、と

そして帰り道
道なき道なんだけど
これ余りにも道なきだよね

やっぱり道作ろ
えっ、今からですか
まっすぐ帰らないの?

重蔵や徳内の報告で
今まで噂として入ってきていた事が確信になります。

松前藩に任していちゃダメだ

翌年の1799年
突然幕府は宣言します。

東蝦夷を幕府の直轄とします。

もうちょっと続きがあるんですが
そこではもう一人重要人物が加わってきます。

続きはまたね

索引はこちら
[歴史]シリーズはこちら(少し下げてね)


ガクアジサイ

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北海道と言えば、最上徳内と近藤重蔵」への2件のフィードバック

  1. ピンバック: 高田屋嘉兵衛は日本を救った男 | でーこんのあちこちコラム

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