井上でんは、尊敬すべき発明家

江戸のヒロインシリーズです

井上でん
江戸時代には、女性の仕事として機織り(はたおり)というのは一般的だったようです。

井上でんは、久留米に産まれます。
でんも、7歳の頃から機織りを習うんだけど
外の女の子と大きく違っていた事がひとつ。

機織りが好きで好きで仕方がなかった。

来る日も来る日も機織りに没頭。

当時は、無地か、縞模様程度の柄しかなかったんだけど
でんは、古布で、ところどころ白く色落ちしちゃったのを、じーっと見つめる。

どうしたん

うん
ここが藍色でね
ここが白

そうね
色落ちしちゃったからね

ということは
この横糸も、ここが藍色でここが白
この縦糸も、ここが藍色でここが白

そうね
最初はそうじゃなかったけどね

最初からそういうふうに染めた糸で織ったら
白く丸い柄が出来るわね

??
言っている意味が・・
ちょっと私忙しいから行くよ。

加寿利
染めるとき、糸を束ねておいて、染めたくない部分だけ、キュッと縛ってから染める

加寿利(かすり)が誕生した歴史的瞬間です

何がすごいって、この時の年齢
13歳です。
普通なら鼻たらしてます。

試行錯誤を重ねて、織れる柄が増えていきます。

この革命的商品「加寿利」を大々的に売り出して大ヒット

すごいことに、15歳の時、すでに弟子を20人くらい取ります
15歳ですよ。
普通なら、鼻たらしてます。
(お医者さんに診てもらった方がいいかな)

結婚
21歳で結婚。
二男一女をもうけます
この人やっぱりすごい。
スピードを緩めるどころか、スピードアップ
「久留米原古賀織屋おでん 大極上御誂(だいごくじょうおめし) 」
というブランドをつけて、商売を広げていきます。

いやあ、大したもんですなあ
と思うんですが
本人、全く満足していない。

こんなんじゃダメ、ダメなのよ
ひょっとして、あの人なら。

頭に浮かんだのが、久留米で評判になっていた「発明少年」
田中久重その人です。
そう、後の東芝の創始者です。
田中久重。東芝未来科学館に行って来ました。
田中久重。東芝未来科学館に行って来ました。続き
からくり人形で人々を驚かせ「からくり儀右衛門」と呼ばれます

とは言え、東芝の創始者となる程までとはその時は分からないわけで
井上でんは、超ヒット作を産み出したれっきとした実業家
三人の子供の母親でもあります。
そんな26歳が、15歳の元を訪ね、頭を下げて知恵を請う。
15歳ですよ、15歳。
普通なら・・・

紺の中に、花や鳥のような模様を織りたいの。よい方法はないかしら

はあ?
先程、模様が出来たと言いましたね
そうしたら、花だろうが鳥だろうが、原理は一緒でしょうに

普通の大人がやって来たなら、逆に反発したかも知れませんね。
お互いに通じるところがあった。
10代前半でも、何か大きな事をやり遂げるには十分。

これ面白いかも知れない
久重は、何度も何度も質問をし
試作を繰り返す。

そしてとうとう出来上がります
板締め技法
板面に絵の模様を彫刻して、それから織り糸をその板に張り、
もう1枚の板で挟んで、かたく締めて染める

糸は出来た。
よしっ
それを思ったように正確に織りあげる
その為には、でんの技術
そして
久重は機織り機の改良まで手をかけていくのです。

絵がすりの誕生です。

その後、でん28歳の時
旦那さんが亡くなってしまいます。

もちろん、何があってもめげるでんではございません。

そして、でんの良いところは
守ろうとしなかったこと

自分の得たノウハウは全てオープンにし
弟子を積極的にとって、伝えていく。

40歳の頃には、弟子の数、実に3400人

70歳を越えても、まだまだどこへでも出掛けていって
ノウハウを教授したと言います。

おかげて久留米に始まったかすりも
全国で広まっていくことになるのです。

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