[天皇]21 雄略天皇。鉄剣にあった名前は。

[天皇]20 安康(あんこう)天皇。衣通姫の禁断の愛。
の続きです。

父の仇
安康(あんこう)天皇は、ライバル大草香王子(おおくさかのおおじ)を討ち、天皇になるが
その子供、眉輪王(まよわおう)に父の仇、と殺される。

殺れば殺り返す混沌とした世界を、さらに上回る力でねじ伏せようとしたのが、
安康天皇の弟、ワカタケル王(雄略天皇)です。

雄略天皇
大泊瀬幼武尊(おおはつせわかたけるのみこと)~489年

雄略天皇のエピソードをお話しする前に、鉄剣の話をします。

1873年(明治6年)九州の熊本で、鉄剣が出土された
途中、「治天下獲□□□鹵大王」 と書かれている箇所があり
これは、王の名前だぞと。
ただ、肝心の□□□の部分が判別不能。
諸説が入り乱れておりました。

1968年に行われた埼玉の稲荷山古墳の発掘調査で、鉄剣を出土した。
今度はレントゲンで見るとちゃんと読めるぞ

熊本の時と同じと思われる大王の名前があった
獲加多支鹵大王
獲わ 加か 多た 支け 鹵る
そうかっ、わかたける大王か!
雄略天皇の事です。

年号も書いてありました。
辛亥(しんがい)の年。60干支は60年で一回りしますので、60年の幅で正確な年が分かります。
おそらく西暦で言うと、471年。
雄略天皇と一致します。

衝撃の事実です。
熊本から、埼玉という広範囲に渡って
同一の大王の影響が及んでいた。

従来考えられていたより、随分早くに大和王朝はそこまで広範囲に統一を果たしていた可能性があります。

センセーショナルに新聞報道されましたので、
御存知の方もおられるでしょう。

ライバル殺し
まずは、兄を殺した、眉輪王(まよわおう)ですが
二人の兄が関わっていたのでは、として二人の兄も殺します。
眉輪王は自分が権力を奪うつもりなど全くなく、ただ父の仇を討っただけ
釈明するのですが聞き入れず、屋敷ごと焼き払います。

そして、兄、安康天皇が次期天皇として指名していた、
いとこの市辺押磐皇子(いちのべのおしはのみこ)も射殺する

激しい性格で軍事力にも長けていたから
ライバルのみならず、諸国の有力氏族も平定
例えば、吉備(きび)の国は強力だったが、屈服させている

こういったところで鉄剣につながるんでしょうね

万葉集
万葉集では雄略天皇の歌ものっています。

籠(こ)もよ み籠(こ)持ち 掘串(ふくし)もよ 
み掘串(ぶくし)持ち この丘に 
菜摘(なつ)ます児(こ) 家聞かな 名告(なの)らさね
そらみつ 大和(やまと)の国は おしなべて
われこそ居(お)れ しきなべて われこそ座(ま)せ われこそは
告(の)らめ 家をも名をも

籠(かご)よ 美しい籠を持ち 箆(ヘラ)よ 美しい箆を手に持ち この丘で菜を摘む乙女よ
きみはどこの家の娘なの? 名はなんと言うの? 
この、そらみつ大和の国は、すべて僕が治めているんだよ
僕こそ名乗ろう 家柄も名も

菜を摘む可愛い女の子をナンパする歌です。
おどろおどろしい性格に、こういう面もあるとなると
ちょっとほっとしますね

産業を振興したという側面もあります。
養蚕を勧めようと思い、臣下のスガルに命じた
蚕(こ)を集めよ

すると間違って、子どもをたくさん集めてきてしまい、大爆笑

また
丹波国からトヨウケノオオミカミ(豊受大神)を伊勢の地に遷し、
アマテラスオオミカミ(天照大神)の食物神として祀ることにした。
これが伊勢神宮の外宮(げくう)の起源となります。

[天皇]シリーズはこちら(少し下げてね)

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