[名僧] 天秀尼、秀頼の子

名僧シリーズです。

天秀尼(てんしゅうに)
1609~1645年 臨済宗

天秀尼は豊臣秀頼の娘です
秀頼は、大阪夏の陣で自決
正妻は、千姫、家康の孫です。
大阪城の燃え盛る火の中助け出されます。

秀頼の子は、側室の子で二人
国松と奈阿姫(後の天秀尼。今後、天秀尼と呼びます)
国松は捕らえられ、京都六条河原で斬殺

天秀尼は助けてあげて

千姫が懇願
自分の養女とします。

とはいえ、天秀尼の子孫を認める訳にはいきません
出家して尼になるという条件付きです

東慶寺(とうけいじ)
預けられたのは鎌倉の東慶寺
先日、行ってきました
いざ、鎌倉へ

東慶寺は特殊なお寺
鎌倉時代に北条時宗の奥さんが、時宗の死後、尼となって余生を過ごした場所
あることに疑問を持っていた。
結婚後の男女の不平等さ

俗に三下り半って呼ばれる離縁状は
一般的に思われている離婚通告状ではなく、再婚許可証
男性からしか出せない
女性側から見ると、もらえないと再婚も出来ない。

例えば夫の暴力で苦しんでいるというような場合
それ以前から、神社やお寺に助けを求めるということがあった。
特に尼寺は、駆け込んでしまうと、男子禁制なので連れ戻しにくい。

幕府として、正式に決めてよ、と息子の北条貞時に掛け合った。
尼寺の東慶寺に駆け込み、3年経過すると離婚成立
寺法と言います。

天秀尼は、東慶寺の住持として、その役割を引き継ぎます。

家庭裁判所のような役割

女性の悩みを聞いてあげる
アドバイスをして大体の場合は一旦帰す

それでもダメならば、またおいでなさい。

時には、夫に出頭命令
これはかなり強力。
これについては、あとでもう一度

加藤明成事件
寛永16(1639)年、事件が起きます。
東慶寺がなんぼのもんじゃいと、会津藩の藩主加藤明成が
天秀尼に、駆け込んだ女性の引渡しを要求します。

夫婦間のトラブルではなかった
藩主加藤明成と家臣の堀主水(ほりもんど)間の問題。

堀主水は藩主に半旗を翻し、公に批判した上で、高野山に逃げる
妻子は、東慶寺に駆け込ませる

捨て置けぬ

今後、藩を運営していくなかで、厳罰に処する必要がある

徳川幕府が始まって、まだ30年とちょっと
混沌を安定に持っていくためには、藩の中で藩主の力を強固にすべしと家光も判断

高野山に堀主水を引き渡させた。

結果、殺される

東慶寺にも実力行使で強奪すべくやって来る

立ちはだかったのが天秀尼

寺法をお忘れか
ここより一歩たりとも入らせませぬ

このいざこざは、数年もかかります

渡せ。
いえ、渡せません。

天秀尼は千姫の養女ですから
千姫の力も最大限に借ります。

将軍家光と加藤明成の連合軍も、天秀尼と千姫の連合軍には敵いません

結局どうなったかと言えば
会津藩の40万石は明成が引退させられ
加藤家としてはたった1万石となって息子が継ぎます。

40万石にひとりの尼さんが勝った訳です。

それ以降
それ以降、東慶寺からの出頭命令が出たとなると、大騒ぎ。
夫だけではなく、夫が所属している藩自体、恐怖におののきます。

へたすりゃ、会津藩の二の舞です。
東慶寺に行く前に、夫は藩主に呼び出され、お咎めを受けます。

お殿様、お言葉ですが、悪いのは妻です。
私は何も悪くございません。

馬鹿を言うな
東慶寺の言うことに間違いがある訳なかろう

寺法は江戸時代の間中、強く守られて行きます。

この話、昨日する予定だったんだけど、一日置きました
長女の結婚の話の後で、離婚の話というのもね

[名僧]シリーズはこちら(少し下げてね)

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