[明治]伊藤博文。日本で初めての内閣総理大臣

[明治]伊藤博文。第二世代のスーパースター
の続きです。

伊藤博文
プロイセンから戻った伊藤は、政治の組織を変えた

1885年(明治18年)
太政官制度という
太政大臣がいて、その下に左大臣右大臣
そしてその下に参議という仕組みから
内閣制度に変換した。

内閣総理大臣並びに宮内、外務、内務、大蔵、陸軍、海軍、司法、文部、農商務及び逓信の各大臣
で内閣を組織

初代の内閣総理大臣は?
もちろん、伊藤博文です

そして、続く次世代の人作りのため
帝国大学を作りました。

憲法
いよいよ、大日本帝国憲法です。
1889年(明治22年)2月11日に公布、1890年(明治23年)11月29日に施行

イギリスのような議員内閣制ではなく
立憲君主制
あくまで、主権は天皇にある

内閣総理大臣は明治憲法に明確に規定されてはおらず
「国務各大臣」の一人だった

そして、約束通り国会の開設
憲法の施行に合わせてスタート
選挙権はまだまだ一握りの人だけだったけど
それでも、国中大騒ぎ
国会祭りがあちこちで開かれました。

結局、4度も首相になり
その間
内閣制度の確立、憲法起草、に続いては
日清戦争の勝利、条約改正、本格的な政党内閣の誕生

人物的には私心のない清廉潔白
尾崎行雄に、あれほど国の事を思えれば大したもん
と言わしめた。
ちょっと女癖が悪いのがたまに傷

明治天皇からは、全幅の信頼を得ました

暗殺
伊藤は首相退任後に韓国統監として京城に駐在し、
ロシア蔵相との会談のために訪れたハルピン駅頭で安重根に暗殺された

その後、韓国併合という歴史になっていくわけだけど
少なくとも伊藤は意図していなかった

韓国からは、元凶のごとく思われているようです。

[明治]シリーズはこちら(少し下げてね)

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