[天皇]55 文徳天皇。ここに住んじゃダメですか?

文徳天皇
850~858年

この辺りから明確に、藤原氏色が強くなっていきます。
文徳天皇の時期は、藤原良房、北家です。
もうこの時は、四家の内、北家の独壇場。

先の仁明天皇が41歳で亡くなったため、皇太子が即位
文徳天皇です。

通常は、次の天皇(皇太子)をその時点で決めるのですが
それができなかった。

文徳天皇の第一皇子は惟喬(これたか)親王
そのお母さんは、紀静子
紀氏と言えば後に紀貫之に繋がっていく家で、藤原氏のライバル。

文徳天皇としても、惟喬(これたか)親王を皇太子にしたかったんですが
明子(あきらけいこ)という藤原良房の娘との間に、ちょうど子供が生まれたばかりだったのです。
惟仁(これひと)親王
もし、惟仁(これひと)親王が次の天皇になると
藤原氏は、このあと長く続く外戚作戦が実現するのです。
言い方を変えると「天皇のおじいちゃんですよ」作戦

でも、惟仁親王って、二番目ならまだしも、四番目
腹違いのお兄さんが三人もいます。

とっても不自然なのですが
文徳天皇も圧力に屈し、とうとうたった八ヶ月の惟仁親王を皇太子とします。
三人も追い抜いちゃった。

大枝を超えて 走りて超えて 躍り上がり超えて 我らまもる・・
と、風刺の歌が流行った。

左大臣、源常(みなもとのときわ)
右大臣、藤原良房

左大臣の方が上なので良房はまだ2番目

ところが、数年後、源常が亡くなった。
さあ、良房左大臣かと思うと
いえいえ、そのもうひとつ上の、太政大臣になっちゃった。

太政大臣って常にある職務ではなく
国家の重大事項があったりしたとき、左大臣より上に特別に置く


文徳天皇って名前に徳がついてます
「徳」がつくのは可哀想な天皇でしたね
難波宮に置き去りにされた、孝徳天皇
壇の浦の沖で、僅か8歳で身を投げた、安徳天皇
後鳥羽上皇とともに倒幕を企てるも失敗し、佐渡に流された、順徳天皇
いじめ抜かれ、保元の乱を企てるも失敗、
讃岐に流されたあとも散々で、生きながらにして鬼になると宣言した、崇徳天皇

文徳天皇は、どんな風に可哀想かというと
皇太子選定で思いの通りにならなかった事に加え
在位中東宮雅院や冷然院などといった御所を転々として、
一度も天皇の住まいであるはずの内裏に住まなかった。
また内裏の正殿である紫宸殿で政務をとらなかった

良房と文徳天皇は仲が良かった書いてある書物もあるので、何とも言えないのだが
天皇の住まいに住まなかったという事実はある

ただ、これまでの事で、「徳」が付くだろうか
徳は意図的につけられる。

不幸においやった側が、その自覚があるために
たたりを恐れた命名
この天皇には「徳」がありました、ということで
祟りを起こす霊に静まってもらおうと。

藤原良房が太政大臣になった僅か1年半後
なんと文徳天皇が32歳の若さで、突然病気で亡くなってしまう。

何らかの文書が残っている訳ではありません。
全くの推測
でも、この不自然な死が
徳をつけざるを得なかった、と考えられなくもない

在原業平
文徳天皇の第一皇子、惟喬親王に仕えていたのが、かの在原業平
超イケメンでプレイボーイ
惟喬親王ということは、負け組側
判官びいきの日本人としては、応援したくなって
色んな伝説が生まれ、ヒーローとなっていく。
伊勢物語は在原業平の事だとなっています。

女性関係も盛んなので、色んな問題を引き起こすんだけど
一番大変なのは藤原高子(たかいこ)とのこと
藤原氏って外戚作戦で権勢をほしいままにするわけで
その候補となる適齢の女性がいなければ大ピンチ
いっぱい駒(?)を使っちゃって、残り高子しかいない状態だったんです。

そんな高子に手を出しちゃった在原業平
業平が手を出そうもんなら、百発百中ですから

この目障りで実害を及ぼす在原業平は何とか目の前から消えてもらう必要があります。
左遷です。

名にし負はば いざこと問はむ 都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと
(隅田川を渡ろうとするときに、都鳥(ユリカモメ)に対して
「都」という名を持っているのなら、(都の事情に詳しいであろうから)さあ尋ねよう、。
私が恋い慕う人は無事でいるのかいないのかと。)

百人一首では超有名なこれですね
ちはやぶる 神代もきかず 竜田川 からくれなゐに 水くゝるとは

[天皇]シリーズはこちら(少し下げてね)

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