[首相]16 田中義一。政治家としては4年。天皇陛下に怒られちゃった。

田中義一
政友会 昭和2(1927)年~昭和4(1929)年

田中義一は、長州出身
陸軍に入り、基本ずっと陸軍の人
軍功を重ねていっての出世
山県有朋にも気に入られます。

日露戦争の前には、ロシアの内情を探るべく潜入
ギイチ・ノブスケビッチ・タナカと名乗り、溶け込みます。
ロシア正教に入信までし、社交ダンスも習い、ロシアの貴族たちとも交流を深めます。
陸軍一のロシア通になります。

原敬内閣では陸軍大臣にまで上り詰めます。

飾らない人柄で、「おらが大将」と人気が出ます。

大正14年、政友会の前総裁高橋是清の推薦で、政友会の総裁となります。
軍人が急に政治家に。
以前から、自分の理想を実現するためには政治が必要と語っていたので
本人としても、いよいよ、っていう感じかもしれない。

若槻礼次郎内閣が、大蔵大臣の失言で金融恐慌を起こしてしまい辞任
政友会の内閣に切り替わります。

首相は政友会の総裁、田中義一という事になります。
金融恐慌の後始末は、大蔵大臣に高橋是清を起用し、ちょちょいのちょいで解決。

軍事的には、ずっと陸軍の人だったため、拡大路線。
山東半島への出兵をはじめとする、対中積極外交

ところがさらに大きく脱線する形で、関東軍(満州に駐屯していた陸軍)が勝手なことをする

張作霖爆殺事件
張作霖(ちょうさくりん)は日露戦争の時、日本軍を支援して以来、親日路線だった
満州王とまで呼ばれます。

ところが次第に、欧米に近づき、親日路線を転換していく。
田中義一はまだまだ張作霖とは連携可能だと思っていたが
関東軍は見限っていた。

張作霖の乗った列車が爆破されるという事件が起きた。

犯人は、関東軍の誰かではないか。
そう思いつつも、天皇陛下には、まだ分かりませんと報告。

それ以降、陛下への報告が二転三転する

結局、犯人が関東軍の一員だと分かったとき
陛下からは、厳重に処分するように、との指示。

誓って仰せの通りに致します。
と、言ったくせに、陸軍から反対意見が出るや
軽微な処分で済ませてしまった。

カンカンに怒った陛下に強く叱責された。

責任をとって辞任。
よっぽどこの事がこたえたのか、数ヵ月後には亡くなってしまう。
在位2年。結局、政治家としては4年間のみだった。

[首相]シリーズはこちら(少し下げてね)

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