[三十六歌仙]12 大伴家持。纒向(まきむく)っ

出ましたっ
万葉集の主のような人で
「令和」の産みの親の大伴旅人の息子です。
産みの親の息子っちゅうことは
大伴家持は令和そのものか

大伴家持

まきもくの ひばらもいまだ くもらねば 小松が原に あは雪ぞふる
(巻向の檜原はまだ曇ってもいないのに、ここ小松が原には淡雪が降っている。)

百人一首ではこれ
かささぎの 渡せる橋に おく霜の 白きをみれば 夜ぞふけにける
七夕の歌です。

大伴氏の跡取り
大伴家持(おおとものやかもち)は大伴旅人(おおとものたびと)の長男で、
生まれ年は養老(ようろう)2年(718)といわれています。
母は旅人の正妻ではなかったのですが、
大伴氏の家督(かとく=相続すべき家の跡目)を継ぐべき人物に育てるため、
幼時より旅人の正妻・大伴郎女(おおとものいらつめ)のもとで育てられました。

けれどもその郎女とは11歳の時に、また父の旅人とは14歳の時に死しました。
家持は大伴氏の跡取りとして、
貴族の子弟に必要な学問・教養を早くから、しっかりと学んでいました。
さらに彼を取り巻く人々の中にもすぐれた人物が多くいたので、
後に『万葉集』編纂の重要な役割を果たす力量・識見・教養を体得することができたようです。

そのあとは、中央と地方を行ったり来たり
天平勝宝元年(749)に従五位に昇進しますが、
その後の昇進はきわめて遅れ、正五位下に進むまで21年もかかっています。

当時の最高権力者は橘諸兄
新興貴族の藤原氏が力を持ち出した頃
老舗の大伴氏は、なかなか厳しい時代だったのかも

歌の方は超一流
万葉集は大伴家持の一人舞台です。

鑑賞
それでは冒頭の歌を見ていきましょう
まきもくの ひばらもいまだ くもらねば 小松が原に あは雪ぞふる
(巻向の檜原はまだ曇ってもいないのに、ここ小松が原には淡雪が降っている。)

とても不思議な歌です。
歌の意味としては、雲もないのに、雪が降ってきた
なんて不思議なんだろう、と
とても幻想的な情景で、名歌だと思うんだけど
本歌がある

巻向(まきもく)の 檜原(ひばら)もいまだ雲居ねば 小松が末(う)れゆ 沫雪流る

ほとんど一緒
こっちの本歌は万葉集で柿本人麻呂の作
万葉集ということは、この歌を選んで、万葉集に入れたのは、大伴家持だと思います。

ところが、時代が変わって、古今集にこの大伴家持の歌がのっています。

本歌取りって元の歌の持つイメージを利用しつつ、新しい要素を付け加えることに意味がある
あまりにも似てませんか?
プラス要素がないんじゃない?と思うほど似ている

大伴家持ともあろう人が、自分で柿本人麻呂作の、素晴らしい歌として選んだ歌について
そんな意味のないことをするだろうか

万葉集は、奈良時代末期の宝亀11年(759年)
古今集は、平安時代中期の延喜5年(905年)
150年の隔たりの中で何があったんだろう

唯一違うことがある
万葉集の方は冬の歌として掲載
古今集の方は春の歌として掲載

おそらく、150年の中で、「あは雪」は冬のイメージから
春のイメージに変わったんでしょう。
あまりに良い歌なんで、再度のせたいけど
春の歌としてもう一度味わってほしいと

面白い考え方だけど
だとすると、歌も作者も同じにして、冬から春に変えるだけの方が
もっと良く意図が伝わる気がするんですが

巻向
すみません、なんかせっかくの歌に文句をつけているみたいで。
実はこの歌個人的にとても感動しているんです。

最初の「巻向(まきもく)の 檜原(ひばら)」って部分
巻向とは、奈良県桜井市にある巻向山のことで、初期の大和朝廷の遺跡があります。
古来から政の地であることから、歌の中では巻向の檜原=大和朝廷との意味で使われています。

今歴史検定に頑張ってチャレンジしようとしていますが
覚える事が多くて大変。

古代の遺跡の名前なんか、いっぱいあって覚えきれませーん。
そんな中で良く出てくる遺跡が「纒向(まきむく)遺跡」
でたーーっ、あのまきむくやん

遺跡ってぐらいだから、現代になって地面を掘り返してみたら
古代人のあれやこれやが出てきた、って事ですよね
ああ、ここに大和朝廷があったんだ、って

この歌では、その時代の人がリアルタイムに、まきむくを朝廷の意味として歌っている訳です
感動!
無茶苦茶感動!

まあ、覚えたての遺跡の名前が出てきて嬉しい、ってだけの事ですけどね。

[短歌]シリーズはこちら(少し下げてね)

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