[ことば日本史] 先陣争い

「ことば日本史」平安時代から

先陣争い
武者の最高の名誉を競って
寿永2(1183)年7月に入京した木曾義仲は、
十一月にクーデターを断行し、
後白河法皇に迫って源頼朝追討の院宣を出させた。
そして翌年正月十日にいたって、征夷大将軍に任ぜられた。

だが、それは法皇の本意ではなかった。
法皇の密旨を受けた頼朝は、源範頼と義経を義仲追討に派遣する。

それぞれに軍をひきいて、範頼は勢田へ、義経は宇治に迫った。

義経にしたがった梶原景季(かげすえ)と佐々木高綱(たかつな)とは、
宇治川を渡るとき、我こそはと先を争った。

高綱は、義経からとっておきの名馬を賜って、もし人に後れをとったなら死ぬと誓っていたのだ。
必死だった。

だが景季が、一歩リード。

高綱が声をかける。

「おお、梶原殿馬の帯がゆるんでおりますぞ。
締めたほうがよろしかろう」

景季は、いったんほどいて、締め直した。

その隙に、高鋼は追い抜いて、ざんぶと川へ。

「おのれ、だまされた」

馬を打って、川へ入るが、ついに先陣は高綱のものとなった。

「宇治川の先陣争い」

真っ先に斬り込んで功をあげることは最高の手柄であり、
当然、その後の報酬にもつながる。

そこで、先陣争いということが起きるわけである。

ただ「平家物語」に描かれたような、
騎馬武者が駆けながら一騎打ちするというような場面は、
現実にはほとんどなかったと思われる。

当時の馬はポニーくらいの大きさしかない
鎧を着けた武者を乗せると、速く走れない
馬上から弓をいるなんて、困難を極めるので
普通は馬から降りて弓を射る

おそらく当時から、それを分かっていながら
「まあ、物語の世界ですから」というお約束的な事だったのだと思われる

先陣争いも、端からみるとかなりドタバタの格好悪い感じだったかも知れませんが
それじゃ物語になりませんから

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