深川を歩く。その3

深川を歩く
深川を歩く。その2
の続きです。

仙台堀川

小名木川同様、こちらも海運のために掘らせた運河です。
仙台堀というくらいですから、仙台藩伊達家に掘らせました。

冬木弁財天

弁天様です

海福寺跡

以前、目黒でのウォーキングで訪れた海福寺
永代橋崩落の供養塔が立てられていて、
永代橋から遠いこんな場所に、と思って解説を読むと
元は永代橋に近い場所にあったけど引っ越したんだとの事
納得。
ここにあったんですね
ウォーキングで歩いた場所同士がこんなふうに繋がっていくととても嬉しく感じます。

心行寺

福禄寿です

紅葉がとてもきれい

深川公園
とても広い公園で子供たちで大にぎわい
実はここ、永代寺だったんです。
今回は立ち寄りませんでしたが、ちょっと離れたところに今はこじんまりとしちゃった永代寺がある
ここまで全部となると膨大な敷地
さらに、もう少し先の富岡八幡宮の別当寺だった。すなわち以前は富岡八幡宮と一体化していたとなると、どれだけ大きかったか

永代寺ということは?
はい
霊巌寺でみた江戸六地蔵
今はひとつだけ欠けて五つになっていますが
残りのひとつはここにあったんです。
戦争の金属供出で無くなったんです。

深川不動堂
超大物なので、寄るとかなり時間が必要です。
今回は割愛

深川公園の富岡八幡宮寄りに、石碑があります
度会園女(わたらいそのめ)、出ましたっ
先程墓のあった園女さん
園女さんはとても桜が好き
富岡八幡宮にいっぱい桜を植えて、桜満開
ありがとうって事で、石碑です。


ここでも、ウォーキングの場所が繋がりました。

富岡八幡宮
出ましたっ。超大物
八幡宮は全国に一番多い神社ですが
東京で一番大きいのはここ

何度か来て、何度か書いています

やっぱり相撲の歴代横綱碑

最近は、唯一稀勢の里だけが日本人で、他は全部外国人

横綱の名前と共に気になるのが、この碑の建設にお金を出した人の名前が刻まれている

伊藤博文、田中光顕
大物っ

前回、ガイドさんに話を聞いた時、ゼイムス、と書いてある人が気になったんだけど、有名な人らしいですよ、と言われていた。

そんな事言われるとこっちも気になっちゃいます。
ひょっとして、と頭に浮かんだのが、トーマス・ジェームス・ウォートルス
銀座の煉瓦街を設計した人

明治の始めに銀座の町は火事で焼けちゃった。
火事に強い町を作ろうと、煉瓦街にした

色々調べるうちに、こっちかもと思ったのが、甲比丹(カピタン)ゼイムス
甲比丹(カピタン)とはキャプテンの事。船長さん
やはり明治初期に活躍した外国人ですが
同じジェームスでも、こちらは日本人からゼイムスと呼ばれて親しまれた。
海軍を立ち上げた人。
かなり日本人に親しまれたようで、大井町にはゼイムス坂というのがある

他にも富岡八幡宮にはポイントがいっぱいあるんですが
前回、ガイドさんに教えてもらった昭和天皇の事がとても印象深いので
前回も書きましたが、もうちょっと補足

1945年3月10日の東京大空襲
そのあと、昭和天皇が、視察したいと言われた。
お付きの人たちはビックリ
特に軍関係者は、まずいと、色々言ってみたが、意思が固い
仕方ないので、下見をした係官がとくに衝撃をうけたのは、
かぞえきれないほど稲むらのようなものができており、
近寄って見ると、それが焼けただれた死体の山(二メートルから三メートル)であったこと。
片付けようにも数が多すぎる

さらに困ったのが、どこかからこの情報が敵方にばれた場合
爆撃を受けないかという心配
仕方ないので、ギリギリまで誰にも明かさず
護衛も最低限にした
3月の18日の日曜日に決定
日曜日なら、アメリカ人は休んでいるのではないか

天皇の一行は、午前九時に皇居を出て、時速三六キロですすんだ。
天皇は、荒涼たる焼野原を、しずかにながめられた。

「関東大震災のときは、馬で市中をまわったが、なにもかも焼けてしまって、
残っているものはなかった。その時より今度は、はるかにむざんな感じがする。
いちだんと胸がいたむ。悲惨だね。
これで東京もとうとう焦土になったね」

鳥居が残る富岡八幡宮に着き説明を受ける
粗末な机があるだけ

「こんなに焼けたか」と一言

あとで考えると、命がけの行動だった
すぐあとに、ほど近い場所が空襲を受け、七人が亡くなっている

その時、降伏を決意したのだと思う
詠まれた歌の碑

身はいかになるともいくさとどめけり
ただたふれゆく民をおもひて

[お出かけ]シリーズはこちら(少し下げてね)

深川を歩く。その3」への1件のフィードバック

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