深川を歩く。その2

深川を歩く
の続きです。

おおっ。このようなものが
まだ動くのかなあ

度会園女(わたらいそのめ)の墓。雄松院
松尾芭蕉のお弟子さんです。
衣更えわざと隣の子をだきに

この度会園女という人後でまた出てきますので名前覚えておいてね

深川資料館通りのおみやげやさん
名物おじさんはいないなあ

霊願寺
ここまで来たら霊願寺には寄らなきゃ
イロハモミジがきれい

大好き、江戸六地蔵
六つ全部行きました

江戸六地蔵については何度か書いていますが、例えばこっちを見てね
まるっと上野

大好き、松平定信の墓

松平定信についてはこっちも見てね
[徳川名参謀]11 家斉→松平定信。やりたかったことは?

お昼の時間です。
前回来たときも迷ったのですが、ちょっとお高いのでパスした深川めし
今日は気合いを入れてチャレンジ

入るときれいなお姉さんが、深川めしの説明をしてくれます。
深川めしは2種類あるそうです。
漁師の食べていたぶっかけと、大工の食べていた炊き込みご飯
おすすめは両方少しずつ食べられるこちらの・・
はい。そちらのおすすめお願いします。

2種類どちらも美味しかった。
ボリューム満点腹いっぱい
デザートにくずきりもつきました

仕切っているベテランのお姉さんに聞いて見ました
おみやげやさんの名物おじさん今日は見えなかったみたいですけど

いやあ、おられるはずですよ
たまたま休憩だったかも

それは良かった。体調崩されてるのかと思っちゃいました。

自作のちょんまげかつらをつけている陽気なおじさん

雲光院
阿茶局の局の墓があります。


文京区に茶阿の局の墓ってのもあるから
あれれって思っちゃう。

阿茶の局は家康の側室なんですが
ひときわ異彩を放つ凄腕

甲冑に身を包み、徳川家康と共に戦場を駆け抜けます

家康との間に子は出来なかったのに特別待遇されていたのは
よほど能力が優れていたから
優秀な家臣がたまたま女性だったくらいの感じ

「小牧・長久手の戦い」に参陣する徳川家康に同行しています
特に優れていたのが仲裁の能力

それが大きく実を結んだのが、大阪冬の陣
豊臣方で交渉を主導していたのは、「豊臣秀頼」(とよとみひでより)の母「淀殿」(よどどの)

よし、女性には女性
阿茶、頼むぞ

戦火の中、籠で大阪城に乗り込みます

豊臣側は淀殿の妹、常高院と淀殿付きの「大蔵卿局」(おおくらきょうのつぼね)、
徳川側は本多正信の嫡男「本多正純」(ほんだまさずみ)と阿茶局が会談に臨みます。
ちなみに「正純」は私でーこんの本名と同じ

見事和議が成立します

徳川家康の世継ぎである徳川秀忠の母は、徳川家康の側室のひとり「西郷局」(さいごうのつぼね)。しかし、西郷局は38歳で亡くなり、このとき徳川秀忠はまだ10歳。
変わって母替わりとなったのが阿茶の局でした

おかあちゃん、おしっこ

1616年(元和2年)に徳川家康が亡くなると、
阿茶局は徳川家康から賜った黄金2,000枚(2,000両)で寺院を創建。
ここ「雲光院」です
自分自身も剃髪して仏門に入ろうとします。

しかし徳川家康の遺言では、剃髪しちゃだめ
自分の死後も徳川秀忠を助けるように
そこで阿茶局は在家のまま「雲光院」(うんこういん)と号するようになったのです。

徳川秀忠が亡くなると、ようやく剃髪
ここ雲光院で穏やかに暮らします。

龍光院
毘沙門天です
この横の五輪塔良いでしょう

成等院
紀伊国屋文左衛門の慰霊碑があります

円珠院

大黒天
この大黒さん、良い顔してはる
いつまででも見てられます

良く見えませんでしたがこの奥におられるのがご本尊の大黒天でしょうか

浄心寺

こちらも大奥の大物、4代将軍家綱の乳母三沢の局が作りました。

まだ続きます。
続きはまた改めて

[お出かけ]シリーズはこちら(少し下げてね)

深川を歩く。その2」への1件のフィードバック

  1. ピンバック: えっ、何が始まるの? | でーこんのあちこちコラム

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です