激闘の鎌倉 その3

激闘の鎌倉
激闘の鎌倉 その2
の続きです。

まずは大まかな位置関係をお伝えしておきましょう

大蔵幕府跡
[鎌倉時代]
出ましたあああ。鎌倉幕府がここにあったのでございます。

最初に置かれた幕府
頼朝はここでお仕事したんですね

はい次は?
どれにハンコ押せば良いの?

清泉小学校の角っこになるんですが
可愛いのが、その横にガラスに覆われた掲示板があって
その中に小学生が調べてまとめた大蔵幕府の説明

これ書いた子は一生ものの自慢ですね

源頼朝の墓
[鎌倉時代]
白旗神社というのがあります。
源氏は白旗、平家は赤旗ですから

その横の階段を昇っていくと、源頼朝の墓

さすがは頼朝
大物の墓らしい墓です

横に法華堂跡の案内板

鎌倉時代の最初の方は、大物の墓は法華堂というスタイルで作られたようです
鎌倉は三方が山で囲まれ、狭いので、都として発展して人口が多くなってくると
墓を作る土地がなくなってくる
法華堂というスタイルはなくなり
一般庶民も含め、墓を作っちゃダメという禁止令が出される

仕方ないので、鎌倉特有の「やぐら」という墓のスタイルに変わります
北条政子や源実朝の供養塔にありましたね
崖を横に掘った洞窟です
あちこちにあります
今回行けませんでしたが、まんだら堂やぐらというところは、やぐらのマンションです

不覚にも、案内板の中に「北条義時の墓」とあったのに気づかなかった
ただ、ネットで見ても出てこないので、頼朝のような墓自体は残っていないんだと思う

勝長寿院跡
[鎌倉時代]

年配の方たちが団体で歩いていた
ひょっとしてウォーキングイベント?
自分が主催している身なので、とても気になる
せっかく勝長寿院跡の碑のところまで来たのに
碑を見るより先にみんなで日陰の所に集まった

すぐそこに碑があるのですが、この辺一帯は勝長寿院というとても大きなお寺がありまして

まず、碑を見てから説明の方が良いんじゃないかなあ
すみません、余計なこと

改めて、勝長寿院の説明
今は、碑しか残っていませんが、当時はとても大きなお寺
鶴岡八幡宮寺、永福寺とともに鎌倉の三大寺院というからよほどのものだった
源頼朝、北条一族のあらゆるゆかりのものがほぼここにあったと思われます
頼朝の墓だけはさっきの場所に移したけど
北条政子、北条義時、源実朝等々そうそうたる面々は
全てここに墓があった
寺と共に、焼失
再建されたがまた焼失
結局鎌倉公方が古河公方となったことで保護を失い、そのまま廃寺になってしまった

歌の橋
[鎌倉時代]
1213年(建保元年)、和田合戦のきっかけとなった泉親平の乱に関係したとして
誅殺の命が下された渋川兼守。
明日死刑という段になり、兼守は人づてに十首の和歌を荏柄天神社に奉納しました。

これを詠んだ実朝
感動して、兼守の罪を赦したそうです。
さすがは歌が大好き実朝
百人一首だとこの歌
世の中は 常にもがもな 渚こぐ あまの小舟の 綱手かなしも

感謝した兼守が恩に報いるために造った橋がこの歌の橋

上杉氏憲(禅秀)邸跡
[室町時代]

上杉禅秀こと氏憲(うじのり)は関東管領、鎌倉公方の補佐役です
その時の鎌倉公方は、足利持氏(もちうじ)
そして、その時の将軍は義持(よしもち)
ところが色々ありまして、上杉禅秀が反乱を起こす
上杉禅秀の乱です
この上杉禅秀側に着いたのがあの足利義嗣
[足利将軍]3-7 足利義満。そんな殺生な
複雑怪奇な展開なので、今度ゆっくりお話するとしましょう
結論だけ言いますと、上杉禅秀は最終的には負けちゃいます
そんな上杉禅秀がここに住んでおりました

報国寺
[南北朝時代][室町時代]
その近くに報国寺という寺があり
上杉禅秀の墓・北条・新田合戦 戦死者供養塔があります
行かねば

そこに至る道にも美しい庭園


あれ
なんだか変

拝観料払う入口の所に行列ができている
不思議だなあ
中入らなくても、上杉禅秀の墓・北条・新田合戦 戦死者供養塔なら、これだと思うんだけど

そういうと、竹で有名な報国寺つて書いてあったなあ
みんな竹目当てなのね
上杉禅秀の墓・北条・新田合戦 戦死者供養塔に行列はしませんね

今回私が訪れた場所は、人が多くいるところは全然なかったのですが
唯一この報国寺だけ
改めて、私の興味のある場所と一般の人たちの興味のある所に
大きな大きなズレのあることを再認識

確かに竹はとても魅力的ですが
まだまだ行きたい所あるので、行列に並ぶのはやめときましょう
例によってネットから写真を拝借


このあともう少しあります
続きは次回

[お出かけ]シリーズはこちら(少し下げてね)

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