天皇シリーズ、江戸時代になります
後水尾天皇

後陽成天皇には、母を同じくする一宮(良仁親王)、二宮(幸勝親王)、三宮(政仁親王)の三人の皇子がいた
譲位するとすれば一宮になるが、一宮を嫌っていた
公家の密通事件や、家康の五女市姫が死去することで譲位は度々延期されたが
後陽成天皇の粘り勝ちで、
慶長16(1611)年3月27日、三宮が後水尾天皇天皇として践祚(せんそ)する
和子(まさこ)
後水尾には、2代徳川秀忠に五女・和子が生まれた翌年から縁組みの話が出ている。
慶長19(1614)年3月には、正式に入内(じゅだい)の宣旨が出された
この時代、天皇の外戚になることにさほど意味はなかったが、
家康は家柄が良いわけではないので望んでいたのだろう
元和6(1620)年6月、和子は入内し、女御(にょうご)とされた。
3年後には女一宮が誕生し、久しく絶えていた立后の儀が行われ、和子は中宮(ちゅうぐう)となった。
中宮は皇后のことで、これまでは皇族のほか藤原氏しかなれなかったから、
徳川家の娘が中宮になるのは極めて異例であった。
徳川家が摂関家と並ぶ家格となったということである。
家康・秀忠は太政大臣にまでのぼり、歴代将軍は将軍宣下とともに内大臣に任官し、
のち右大臣にのぼっている。
後水尾と和子の間には、皇子二人、皇女五人の七人の子が生まれた。
しかし、男子はどちらも夭逝した
禁中幷公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)
後水尾の在位期間は江戸幕府成立期であり、幕府の厳しい朝廷統制が行われた時代である。
これは、必ずしも朝廷や天皇に力があったから圧力をかけたということではない
正直、弱体化させる必要がないほどだった
新しい時代にふさわしい朝廷と天皇にしようということだったと思われる。
幕府は、元和元年(1615)7月、「禁中幷公家諸法度」(きんちゅうならびにくげしょはっと)を定めて
朝廷統制の方針を制度化した。
これは、第一条の「天子諸芸能の事、第一御学問也」という条項で有名である。
天皇を学問に専念させることで政治から遠ざけようとした、と説明されることが多いが、
ここで学ぶことを推奨されているのは、『貞観政要』(じょうがんせいよう)や
『寛平御遺誡』(かんぴょうのごゆいかい)である。
前者は、古来から帝王学の教科書とされてきた唐の太宗の政治に関する言行を記録した書、
後者は、宇多天皇が醍醐天皇への譲位に際して与えた書置であり、ともに政治学の書物である。
幕府は、天皇にあるべき君主の姿を学ばせ、そうした君主にしようとしたのである。
さらに『禁秘抄』(きんぴしょう)を学ぶべしとある
禁秘抄は順徳天皇が書いた有職故実書で
宮中行事・儀式・政務全般にわたる天皇として心得ておくべき故実を記したものである
今まで、おろそかにされてきた、天皇としての神事をちゃんとやってね、と言う事
武家諸法度(ぶけしょはっと)は260年の江戸時代を通じて度々変更されているが
禁中幷公家諸法度の方は、幕末まで効力を持ち続けた不磨の大典だった
続きはシリーズの次回