徳川将軍シリーズ最終回。慶喜、まさかの。

慶喜シリーズも最終回になります。
年も慶応4年です。

薩摩藩邸焼き討ち
辞官納地への返答をもらっていない薩摩藩。
しきりにせっついてきます。

そして、江戸でも挑発行為が頻繁に起きます。
慶応3年、12/25 庄内藩兵が薩摩藩邸を焼き討ちするという事件が起きてしまいます。

鳥羽伏見の戦い
万が一の時の開戦の準備は着々と進む。
兵の数は圧倒している。
長州にすごすごと負けて帰ってきたときと士気が全然違う。
その後、フランスからずいぶん近代戦争の手解きも受けている。
勝つやも知れん。

ただ、この戦いに勝ったところでどうなる。
次の手があるわけではない。

自問自答するが、とうとう押しきられてしまう。

開戦
翌年、慶応4年 1/3 鳥羽伏見の戦い開戦。

1/6 敗兵が続々と帰ってきた。
ダメなのか。

ところが、士気が下がるどころか
初戦を負けたことで会津藩の士気が悲壮感を帯びて高まってしまった。

上様を御陣頭に

まさかの
慶喜はいかに

会津藩・松平容保(かたもり)、桑名藩・松平定敬(さだあき)を秘密で呼ぶ。

江戸に帰る。

は?
今何と

一旦、江戸に戻りその後考えがある。
二人とも一緒に来るように

もしそのことが誰かにばれたら、
えらいことになる。

幕府の軍艦で秘密裏のうちに3人は江戸に向かった。

船上で2人に本心を明かした。
江戸に帰ったら抗戦はしない。
ひたすらに恭順する。

2人をも騙した。
1万の兵を置いてきぼり。
みんなを騙して逃げ帰った。

勝海舟と
帰って、勝海舟と会談。
初めて本音があふれでて涙が止まらなかったという。

錦の御旗が出た。

薩長軍に錦の御旗が出たとは、天皇からの旗が出たということ。
薩長軍こそが天皇の軍であり
それに歯向かうものは朝敵。天皇の敵。

誰よりも天皇を愛した自分が朝敵。

王政復古の大号令に従わなかった時点でそんなこと分かっていた筈。
おそらく自分としては従ったという思いがあるのだろう。
でも、どうしてもみんなを押さえられずに開戦してしまった段階で
やはり分かっていたじゃないかと。

おそらく水戸で育ち、誰よりも水戸的な慶喜は頭では分かっていても
現実に錦の御旗が出たと聞かされて
全く訳が分からなくなったんだろう。

どうなんでしょうね
恐らく歴史上の最大級の難問。

なぜ逃げ帰ったのか。

恐らく100人いれば100通りの見方
100通りの評価があるんだと思う。

評価としては9割方否定的でしょうね。

これを、慶喜あっぱれとは言えないでしょう。

正直言って、ただ死ぬのが怖くなったというのが一番でしょう。

でも、敢えて批判を覚悟で言うならば
それって悪いことなんでしょうかって

今までこの話題は敢えて避けてきましたが
私は極端なまでの平和主義者です。
戦争絶対反対。

死にたくない。怖い。
そのためには逃げ隠れだってする。
それが、平和主義の原点だと思っている。

それにしたってやり方はあるでしょうと思いますよ。
残された兵士たちはどうなるの?って
仲間を騙すってどうなのよって。
人間的に卑劣極まりない。

正直ちゃんと数字を確認した訳じゃないから
違うかもしれないけど

あくまでも結果論として、
逃げ帰ったことで徹底抗戦より失う命が少なかったんだとしたら。

その後の戊辰戦争で多くの命が奪われた訳で
比較論としての数字は分からないから
何とも言えないけど

でもやっぱり戦は嫌なんです。

意気地無しの将軍の方がやっぱり良い。

その前に何とか押さえるべきだったんでしょうね。

ありがとう
この後、江戸城無血開城
明治維新と繋がっていきますが、
慶喜が主役ではありませんので
一旦はここまで。

慶喜目線でない幕末の話も色々有りますから
その辺もまた改めますね。

徳川将軍15代を調べて色んな発見があって
慶喜はやっぱり特別なので、6回もやっちゃいましたけど
お付き合いいただきましてありがとうございました。

そうこうしているうちに江戸時代の文化や
政治なんかの特色にも興味を持ってきているので
その辺もちょこちょこお話ししてますね。

また、色々広げていきますのでよろしくお願いします。

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