[天皇]110 後光明天皇

天皇シリーズ

後光明(ごこうみょう)天皇

女性天皇、明正天皇は最初から中継ぎと考えられていて
早く、弟に譲位せよ、とプレッシャー

幕府としては、明正天皇への譲位は後水尾天皇に勝手にされてしまったものだったから、今度は「若宮」が11歳になると、幕府が主導権をとっての譲位

仙洞付武家と禁裏付武家という
朝廷を監視する組織を新たに追加

天皇に関しては何かとがんじがらめだったので
逃れるために歴代天皇は譲位して自由に院政を引きたがった
幕府としては、明正天皇を自由にさせないため
院にも監視組織を追加した

新たに天皇となったのは後光明(ごこうみょう)
院政は前天皇の明正ではなく、お父さんの後水尾

後光明天皇は、和学より漢学、和歌より漢詩を好んだ
お父さんの後水尾が和学や和歌を好んだので
独自性を発揮したかったのかもしれない

政務に関しては20歳になってようやく、後水尾からもろもろ許されるようになり
かなり意欲的に取り組んだ

さあこれから後光明時代の到来!!

のはずだった

ところが、承応3年(1653)22歳の若さで痘瘡を患い急死した

お父さんの後水尾はこの急死に大きな衝撃を受けた
出家して法皇となり、ようやくあとは任せられると思っていた
この世にもう関心を寄せるものがないと手紙に書いているので
よほどショックだったのだろう

後光明天皇から変わったことがある
遺体の葬り方

持統天皇以来、天皇は全て、仏教式葬儀の導入とともに火葬された
しかし、後光明は土葬される
荼毘(だび)式(火葬式)も行われたので表向きには火葬だが
実際には土葬
後光明は強く儒学に傾倒していたので
儒葬は土葬なので、その影響だと思われる

後光明以降、全ての天皇は土葬されることになる
葬儀は仏教式で真言宗泉涌寺において執行され、
火葬式も行われたが、
実際は泉涌寺の裏手、月輪陵の九輪塔の下に土葬された。

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[縄文]7 山の幸

[縄文] 縄文人は生きている
[縄文]2 ムラづくり
[縄文]3 森をひらきイエをつくる
[縄文]4 ムラができる
[縄文]5 道具づくり
[縄文]6 石器・骨角器づくり
の続きです

東久留米第七小学校の6年生が卒業記念に造った版画集を元に出来上がった「縄文人は生きている」という本からの引用です

21ヤマイモを掘る

縄文人が主食としたのは、植物性の食料であった。
そのうちのナッツ類は表面が堅い皮でおおわれているので、
縄文時代の遺跡から発見されることも多いが、
ヤマイモやクズなどの植物の根は腐りやすいため、
今のところ発見されていない。
しかし、ヤマイモなどが縄文人の大切な食料となったことはたしかである。
ヤマイモは二次林のまわりの日当りのいいところにはえる。
食用となるその根は、地中深くのびていて
しかも、ひじょうにもろい。
そのために大きく深い穴をあけなければ、
うまく掘りだすことが出来ない。
このヤマイモ掘りには、打製石斧とよばれる土掘り具や、
先のとがった棒がつかわれた。

「ヤマイモは葉がおちて、茎がかれたころに掘るのが一番いいんだ。黄色い葉があるときに見つけておいたんだよ。サア!がんばって上手に掘ろう」
新山ムラの人びとも土掘り具をたくさんつくった。

22木の実を集める

秋にみのりをつける木の実の採取は、
主に女や子どもたちの仕事であった。
集められた小さな実は、土器や篭の中に入れられてムラに持ち帰られ、みんなに公平に分けられた。
「もっと集めないと、一冬足りないよ」
「明日はあっちの林にいきましょうね」

23草をぬいて食べる

ツクシ・タンポポ・ツユクサなどのふだんみかける野草で、食べられるものはたくさんある。
もちろんハシリドコロやトリカブトなどの毒草もあるが、
アクぬきさえすれば食べられる草のほうがはるかに多い。

野草をもっともおいしく食べられるのは、
新芽がでてくる春である。
新山ムラの人びとも、春のおとずれとともにはじまる春菜つみに、
先をあらそってでかけたにちがいない。

24ノブドウをとる順を話しあう

縄文人がノブドウを食べたことは、遺跡からノブドウの種が発見されていることでたしかめられている。ノブドウは初秋のころが食べごろだが、
実は小粒で、熟してもすっぱい。
ノブドウからお酒がつくられ、夕食をにぎわしたこともあったにちがいない。

「あっ! ノブドウだ」
紫色に熟したノブドウの実を見つけた子どもの大声に、みんながそこに集ってきた。
「とっちゃだめだよ、おれが見つけたんだ」
「いじわるするなよ」

ケンケンガクガクの子どもたちのいい争いをきいて、かけつけた父さんがみんなを叱ってからいった。
「自然のものはみんなで大事にして、仲良くわけあって食べるんだ」
順番に一人づつノブドウの房を与えられた子どもたちは、先を争って口のなかを赤く染めた。

[河村瑞賢]3 ものを売ろうとするからだめなんだ

[河村瑞賢]1 江戸へ
[河村瑞賢]2 おこうこはいらんかね
の続きです

漬物屋で成功したものの、すぐに真似られてしまう
しかも少し安く売られるのでお客様はそちらに吸い寄せられる

一緒に手伝ってくれている寅吉が
兄貴、どうしやす? と尋ねてきた
漬物のことはお前に任せた。
質も値段も落とさず、作る量を減らして売れ残らないようにしろ

兄貴はどうするんです?
近頃、町中でみんなが欲しがっているものは何だ?
仲間で話し合う
色んな答えが出た中に
壁の下地に使う泥が足りない、と言っている人足頭がいましたよ
壁下地の泥か
泥なら海にあるけど、塩を含んで粘り気が足りない
海の泥に藁屑を混ぜてみたらどうだろう
藁が手に入るところ・・

そうだ。寺や神社などで、月に一度くらい、古草鞋を集めて燃やしているよ
燃えやすいものは集めて寺などで定期的に燃やしている
それだ!

全く元手がかからず、労力だけという考えられない商いを、
またしても七兵衛は生み出した

それでもまた真似られてしまう

ものを売ろうとするからだめなんだ
漬物売りや壁土から発展し
何かを売りたい商人に売り子をまとめて貸したり、壁土を加工する職人を養成し、現場に派遣する商売に変わっていった

かつての人材紹介業、すなわち口入屋であった
通常の口入屋は単に人手を提供するに過ぎない
技術を持った人材を派遣すれば良いんだ
養成してから人材を提供した
壁土なら、漆喰師の超ベテランで既に引退した老人に
若いものに押し込んでもらって、技術を持った人材と商品をセットで売っていく

真似されてうまみが少なくなった商売は、惜しげもなく後進の仲間に譲り渡した
自分は少しずつ商売を変えながら
中心は口入屋と材木の商売になっていった

運命の日
材木の商売を始めてから13年が経過した
商売もそれなりの規模になり安定
七兵衛(後の河村瑞賢)は世帯も持ち
40歳になっていた

運命の日が来る
明暦3(1657)年
江戸中が火の海に包まれた明暦の大火です

私は、河村瑞賢って、この本を読むまで
商売で成功した人なんだと思っていた
確かにここまではそうだったんだと思う
でも、この明暦の大火をきっかけとして
河村瑞賢の人生は大きく変わるし
おそらく考え方も変わっていったように思える

この続きはシリーズの次回

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[神社] 御霊信仰

神様シリーズです

御霊信仰

早良親王(さわらしんのう)
古代の人々は、干ばつや地震などの天変地異が起こったり、
疫病が大流行したりすると、
非業の死を遂げた人が怨霊となって祟りをなしているのだ
と考えました。

怨霊を鎮めるために、祭礼が行われたり、その怨霊を祀る神社が建てられたりしました。
こうやって神様として扱われるようになった怨霊のことを、
御霊(ごりょう)と呼びます。

最初の御霊は、8世紀後半の早良親王(さわらしんのう)だとされます
彼は、平安京を都としたことで知られる桓武天皇の弟で、
皇太子でした。
しかし、朝廷の有力者である藤原種継が暗殺された際(785年)、
これにかかわったとして、淡路島へ向けて流され、
到着する前に亡くなります。
遺体はそのまま淡路島に送られ、葬られました。
そののち、桓武天皇と早良親王の生母である高野新笠(たかのにいがさ)が病死し、
都には疫病が流行ります。
これらは早良親王の祟りとされました。

桓武天皇は早良親王の遺骨を奈良に改葬し、
さらには、「崇道天皇(すどうてんのう)」という称号を贈ります。
また、鎮霊のために、京都に上御霊神社を建てて、早良親王を祭神としたのです。

日本三大怨霊
ほかにも、御霊とされた歴史上の人物は大勢います。
有名なのは、10世紀、朝廷に対する反乱を起こして敗死した平将門と、
12世紀、武士の平氏と源氏を巻き込んだ朝廷の争い保元の乱で敗れ、
讃岐国(香川県)に流された崇徳(すとく)天皇でしょう。
ふたりとも死後、怨霊となって疫病を流行させたと考えられました。
彼らと、今は学問の神様とされている菅原道真とを合わせて、日本三大怨霊といった呼び方をすることもあります。

現在、平将門は東京の神田明神(かんだみょうじん)など、
崇徳上皇は京都の白峯神宮(しらみねじんぐう)などに祀られています。

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