[首相]47 宇野宗佑。短命内閣

首相シリーズ

宇野宗佑

うーん、どう表現すれば良いのでしょうか

消費税導入を果たした竹下登内閣は、リクルート事件で1989年(平成1)に退陣を余儀なくされる。ポスト竹下の有力候補として白羽の矢が立ったのは、伊東正義元外務大臣だった。
だが伊東は、「表紙が変わっても、中身が変わらなければだめだ」と固辞。

緊急避難的に竹下総理が後継竹下総理指名したのが、中曽根康弘派の宇野宗佑外相である。
派閥リーダーではない自由民主党総裁は初だった。
宇野ははじめて閣僚と政務次官の資産公開を妻子を含めて行ない、
政界浄化をアピール。
だが、急ごしらえの政権のあらはすぐに露呈する。
宇野が芸者に手切れ金を払おうとして断わられたというスキャンダルを、
同年6月の総理就任後まもなく週刊誌が暴露。

宇野新内閣は発足直後から失速した。
そのまま7月に参議院選挙に突入したため、
総理に遊説を依頼する候補もいないありさまだった。

結果は自民党36議席(改選前は60議席)と予想以上の惨敗に終わる。
消費税導入とリクルート事件、農業問題の3点セットと、
総理の女性スキャンダルが敗因だった。
いっぽうの社会党は46議席と大勝し、
土井たか子委員長は「山が動いた」。
責任を取って宇野は退陣。
宇野の在職60日は、史上4番めに短い
(東久邇稔彦、羽田孜、石橋湛山に次ぐ)。
逆に以外
私はてっきり、最短だと思っていた

教養人
総理になったくらいの人だから、良いところも見なきゃね

宇野は文人として知られ、俳人協会から『宇野黎子句集』を出す。
また、シベリア抑留記『ダモイ・トウキョウ』を書き、
1977年(昭和52)に、「私はシベリアの捕虜だった」の題名で映画化された。
ピアノ、ハーモニカ、絵画にも長じ、
「総理にさえならなければ、深い教養をもった政治家として尊敬されて終わっただろう」(評論家・渡部昇一)といわれた。

[織田信長]2 二人だけの時間では

[織田信長]1。まむし殿の娘、濃姫
の続きです

天文18年2月下旬、信長の父信秀は、その頃居城としていた末森城中で病んだ。
さらに病床にあることわずか十数日で、三月三日夜、四十二年の生涯を終えた。

16歳の信長の魂は、痛恨と憤怒とに激しく猛り狂っていた。
父よ、父よ、何故死んだ。このおれはこれからどうすればよいのだ
次期当主としての教育を全く受けぬまま
相変わらず気の強い信長ではあったものの
何をどうすれば良いのか、あまりにも荷が重かった

そんな信長に寄り添って、心の拠り所になったのは
ある意味、意外な人物と言えるかも知れない

政略結婚の人質として、政敵斎藤道三の元から織田信長のところに嫁入りした濃姫
道三に不利な情報を得るや
間者を通じて、情報を流した

ただ、それを知りつつも
濃姫を疑う重臣を怒鳴り付けた
「お濃は俺の妻だ」

それを聞いてしまう濃姫

ある日、濃姫が信長に手紙を見せた

なんじゃ

父からの手紙にございます。お読み下さいまし

──信秀死去に伴って、織田家中に紛擾あるべし、好機あらば直ちに報せよ、直ちに兵を出す。
そなたは、栄善の許に逃げれれば必ず救う

どういうつもりで、この書面を、おれに見せたのだ

殿は私を殿の妻ではない、道三の娘だとおっしゃいました。
私が道三の娘ならば、その書状を、殿にお見せしなかったでしょう

いつから、そんな気になったのだ

殿が、道三の間諜であるこの私を、おれの妻だ──と御家老衆に叱りつけていらしたのを盗み聞き致した時からでございます

信長は静かに、濃姫の手を取った

その日以来、二人だけの時間は明らかに違ったものになった
公の前では、何ら変わることはなく
何かと言うと怒っている信長ではあったのだが

[日本の歴史]シリーズはこちら(少し下げてね)

[家重]1 まいまいつぶろと呼ばれた将軍

シリーズが2つ終わりましたので、織田信長のシリーズを始め
もうひとつ、新しいシリーズを始めることにしましょう

実はずいぶん前に「まいまいつぶろ」という小説を読みました
徳川9代将軍、家重についての小説です

家重についてはこちらも読んでね
言語障害、9代家重は女性?

家重については15代将軍の中でも特別の思い入れのある将軍
小説の広告を新聞で見たとき驚きました
えっ、家重を小説に
そんなことしていいの
ほんとにできるの?

家重は障害を持った将軍です
言語不明瞭で、何を言っているかさっぱり聞き取れない
手がほぼ動かないため字もかけないのでコミュニケーションが全く取れない
頻尿が激しくしまりが悪い
歩いたあとには、尿を引きずったあとが残り
陰で「まいまいつぶろ(カタツムリ)」とさげすまれていた将軍

小説は幕府の重臣、滝の井が、大岡忠相(ただすけ)を呼び出したところの会話から始まります
大岡越前ですね
家重がまだ将軍ではない14歳の時になります

なんと、長福丸様の言葉が聞き取れる少年が表れました
(長福丸は後の家重の幼名です。ややこしいのでこのあと「家重」として話を進めます)
忠相様の遠い親戚の大岡兵庫と申すもの
(後の大岡忠光。こちらもややこしいので、このあと「忠光」として話を進めます)
小姓として取り立てたいと思います

まことか。にわかに信じられないのだが

忠光は当時家重より2つ年上の16歳
身分はそれほど高くないので、次期将軍の家重に拝謁できたということ自体珍しいのだが
御目見得の場に呼ばれた旗本の子供たちの中に忠光がいた

家重はその場が耐えがたく、立ち去ろうとした

そこに、忠光がつぶやいた

将棋がお好きなのでございますか

驚いたのは、家重
忠光の方に向かって何やら口を動かす

もちろんでございます。何ゆえそのようにお尋ねでございましょうか

自分の言葉を分かってくれる人がいようとは
家重は思ってもいなかったので夢を見ているよう

家重の特別な事情は外部には伝えられていないので
忠光とすれば、何を驚かれているのかが分からない
次期将軍相手に自分のようなものがつい声をかけてしまったことが
わざわっているのだろうと、後悔しきりだった

家重は動転して一旦部屋をあとにしたが
頭を整理し直して、部屋に戻る
あの者を何としても側におかねばならぬ
そうすれば、あの者を介して、言葉が通じる

忠光のところに戻って告げた

本当にわしの言葉が分かるのだな
今から申す言葉をそのまま、あの奏者番に伝えよ
そうすれば、そなたにもう一度会うことができる

わし自身が、そなたをわしの小姓に取り立てる
奏者番は松平能登守乗賢と申し、去年の三月から若年寄を務めておる。美濃国岩村藩二万石の主じゃ

旗本の子供ごときに知り得ない情報を、よどみなくつらつらと言い当てられ
奏者番は本当の出来事なのだと悟る

次回から、家重と忠光の物語が始まります

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[ことば日本史] 洞が峠を決め込む

「ことば日本史」戦国時代から

洞(ほら)が峠を決め込む
明智光秀が本能寺に信長を襲った翌日の6月3日、
高松城を包囲中だった羽柴秀吉は知らせを受けとった。

秀吉の判断と行動はすばやく、
翌日には毛利軍と講和をむすび、
6日に高松を出発、7日には姫路に入った。
いわゆる「中国大返し」である。
9日、姫路を出発。
11日、尼崎に到着。
12日、摂津富田へ進出し、その翌日、
山崎で光秀軍との決戦「山崎の戦」となる。

ここで慣用句の主は筒井順慶
そのお父さんは「元の木阿弥」の時に紹介した筒井順昭です
[ことば日本史]もとのもくあみ
もともと、光秀に仕えていたから
光秀から応援要請を受けた

ところが
筒井順慶は山崎の戦いの様子を見守れる近くの洞が峠陣を張ったまま

どうしよっかなあ

光秀軍の敗北がはっきりしてきた頃になって、
よし、出陣
秀吉軍に参加した。

これにちなんで、情勢を日和見しながら有利な方につこうとするような態度を、
「洞が峠を決め込む」と呼ぶようになった。

ただし、これは後の創作
順慶は洞が峠には出陣してさえいなかった。

藤田達生『本能寺の変の群像』(雄山閣)によれば、
光秀のクーデターは、室町将軍義昭、朝廷、本願寺などに根回しして
周到な準備のうえで決行されたものだったという。

だが、山崎の戦になるまでに秀吉が、
信長は無事であるという虚偽をもふくめた情報と協力依頼とを
すばやく各地に送り届けたために、
クーデターに呼応するはずだった
細川藤孝(幽斎)・忠興父子、筒井順慶、摂津の諸将らは、
光秀を見捨ててしまったのである。

とはいえ実際にも、
世の噂では光秀につくものと思われていた順慶が、
兵を動かしたのは戦の翌日、14日。
本人が上洛して陣を張ったのは15日。
あまりに遅すぎて、秀吉から叱責を受けている。

洞が峠という場所にはいなかったにせよ、
迷いに迷いながら、情勢がはっきりしてから
態度を決したことは確かだった。

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