元に戻った。幸せの方程式

待ちに待ちに待った、ウォーキングイベント

緊急事態宣言解除の日に、イベントアップの情報入力して、「登録」ボタンを押すだけにして待機
コースは二度下見した文明開化の築地でございます。

この時ばかりは、安倍さんが観音様に見えました

解除と いたします

ポチッ

そして、本日その当日がいよいよやってまいりました。

なんといっても梅雨時
雨は十分にあり得ます。
例年だと、屋内施設をちりばめたコースをチョイス
雨でもなんとかなるコースに仕上げるんですが、今年はそれが出来なかった。
随分前から週間天気予報をチェック
一貫して雨

でもそんなことは過去何度も何度もあります。
私は絶対的晴れ男
週間天気予報を覆してまいりました。
あれ、結局傘ささずに行けたね、ってことが何度もあります。

前日まで来ても、雨予報でしたが、小雨っぽいぞ
決行だ

ところが朝、天気予報を見てると
大雨にご注意下さい

あちゃー

開始
お久しぶり~
会いたかった
ごめんね、結構降ってるね

いつもの自己紹介をして開始

文明開化のあれやこれや

昼食の場で、結局コロナの話は一切出なかった。
文明開化の話や、雨の話
もうみんな飽き飽きなんでしょう。

屋内施設の時間を長く取り
傘をさしながら、なんとかかんとか乗りきった

色んな解説を、いっぱい喋った喋った。

イベント終了

毎回思うけど
終わったあとのこの幸福感はなんだろう
ああ、戻ってきた。
この幸福感が戻ってきた

開催出来なかった期間があったので
改めて、自分はこれがあるから幸せなんだと思った。

これさえやれば、自分は幸福だという方法が分かっている
こんなラッキーな事があるだろうか
最後まで、自分の幸福の方程式を見つけられずに終わる人だってわんさかいるだろう。

みんなと歩けば良い
無茶苦茶難しい事ではない
でも、ひとりで出来ることでもない。
長ったらしい解説に付き合ってくれるみんなが必要
改めて、みんなに感謝

ありがとう

[お出掛け]シリーズはこちら(少し下げてね)

[神社]伊勢。式年遷宮でプレゼント

[神社]伊勢。ここが良いわ。
[神社]伊勢。斎宮の悲恋物語
の続きです。

式年遷宮
伊勢神宮と言えば、式年遷宮
20年に一度、全く建て替えちゃう

直近で言うと、平成25(2013)年

式年遷宮は伊勢神宮の専売特許のように思われていますが
出雲大社、上賀茂神社、住吉大社、香取神宮、鹿島神宮など
主だった神社では20年に一度、式年遷宮が行われてきた。

但し、場所まで移して全く建て替えると言うものではなく
屋根の修繕だったりと
マンションで言うならば、大規模修繕の意味合い。

なぜ伊勢神宮は?という疑問がわきます。

ひとつには老朽化
少なくとも茅葺き屋根は、20年に一度作り替える必要がある

式年遷宮の時に、解体まで立ち会った人は
躯体もボロボロだったと振り返っている

ただ、考え方としては逆な気がする
20年に一度全く作り替えるから、それ以上もたなくても良いやと言う建て方をしているんじゃないかと。

現に伊勢神宮以外のあらゆる神社は、もっともっと長く持っている

伊勢神宮たるもの、神社の代表であるため
最も神社としての基本的あり方を具現化したんじゃないか。

死と再生です。
太陽神としての天照大御神なので、日の出日の入りを繰り返す。
海外の宗教を見ても、キリストが復活したように
死んだあとに甦るというのは特別の意味を持っている。

秋に収穫して、春にまた芽ぶくという、稲作の繰り返し。
神社はもともと、稲の収穫を神に感謝することに始まる

春に山から、神様に降りてきてもらう儀式
稲作を見守ってもらい
収穫を感謝して、山に戻ってもらう儀式

儀式のためだけの施設として始まったから、常設ではなく
作っては壊す繰り返し。

その元あった形を象徴的に残したのではないかと。

式年遷宮の歴史
式年遷宮はいつから行われているのか

一般的には、天武天皇14年に式年遷宮が制度化され
持統天皇の4年に内宮が、同6年に外宮が遷宮と言われている

であれば、日本書紀に書かれていても良さそうなもんだが
一切その記述がない。

ずっとあとの伊勢神宮の記録、太神宮諸雑事記に初めてその記述が出てくる
結局、よく分からない

昔は火災も多かったと思うので、もっと早い時期に建て直さざるを得ず
きっちり時期通りがむつかしいこともあったろう

もし、天武天皇や持統天皇の時期から式年遷宮が行われたと仮定すると
唯一、持統天皇が伊勢神宮にお参りしたということと関係しているのではないか

壬申の乱です

壬申の乱に向かう前に伊勢神宮に参拝し、勝利を祈願
見事に勝利

古事記と日本書紀を編纂し、自分を天照大御神に見立てていた持統天皇
伊勢神宮には特別の思いもあります。

ありがとうございます。伊勢神宮
お礼に、ピカピカの真新しい建物を差し上げます。
今回だけではありません。
今後20年に一度ずつ、プレゼントしますからね

式年遷宮の理由は、案外そういうところにあるのかも知れません。

興味深いのは
ほぼ定期的になったあと、室町時代に入る14世紀半ばまで
20年に一度ではなく、19年に一度だった
内宮の遷宮のあと、2年後に外宮の遷宮が実施されている

応仁元(1467)年、応仁の乱が起きる

応仁の乱の5年前に第40回の内宮遷宮が行われたが
次の第41回はというと
123年後の、天正13(1585)年になってしまう。
外宮は、実に129年も間が空いた

元々20年前提で立てられていた訳だから、
相当に老朽化する

内宮第40回遷宮の30年後、伊勢神宮側から上申書が出されている

本格的な遷宮が無理なら、仮の遷宮でもやってもらえませんか。

でも、これも却下

とうとう、第41回の遷宮まで85年もの間
内宮は消失して、存在しなかった。

外宮の方が消失していたかの記録は残っていないのだけど
普通に考えると同じなんでしょうね

あの伊勢神宮が、世の中に存在していなかった時期があったとは
とても驚き

[神社]シリーズはこちら(少し下げてね)

[天皇]51 平城天皇。勤勉なる君主だったけど

天皇シリーズ

平城(へいぜい)天皇
806~809年

桓武天皇の息子で皇太子
桓武天皇の死去を受けて即位します。

平城天皇は実に真面目
桓武天皇が派手好きで、遊興を繰り返したのに
ただ真面目に行政改革を断行

派手好きな皇族貴族とはそりが合わなかった。
その代表格が、伊予親王と藤原乙叡(たかとし)

伊予親王は謀反を企てていると密告され、捕まった。
川原寺に幽閉され、飲食を絶たれた
最後は服毒自殺

藤原乙叡も連座され
この事件で、藤原南家は一気に没落する

遊宴・遊猟だけでなく、造営や戦争を好まなかった。
仏教についても、きわめて冷淡であった

何か派手な臭いのすることは一切せず
ひたすら真面目に仕事をし、改革を進めていった。

そんな精勤がたたったのか、病気になってしまう。

闘病中も法令を出し続けるが
ついに、譲位することを決意する

弟の嵯峨天皇が即位です。
元の派手路線に逆戻り

平城太政天皇は、体を癒すべく、平安京内ではなく、別の場所での療養を希望した。

色々探した結果、前の奈良時代の都、平城京に移った。

それまでは、天皇が譲位して太政天皇となっても、同じ宮内に住むので仕えるものは、両者兼任で仕えていた。
今度は場所が離れすぎているので二手に分かれることになる

二所朝廷と言われていた。

そうこうしているうちに、今度は嵯峨天皇が病気になった。

反比例するように、平城太政天皇は少しずつ回復していく。

すると、政治への意欲がふつふつと甦る

薬子の変
平城太政天皇の側近に
藤原仲成・薬子(くすこ)の兄妹

薬子は平城が皇太子の時から寵愛を受けていた。

真面目な人ほど、ひとたび女性に目が眩むとおかしな方向に行くと言います。

平城太政天皇は突然に宣言。

今後、都は、平城京に遷都します。

薬子が本当に平城太政天皇を焚き付けたのかは分かりませんが
薬子の変って名前がついちゃいました。

これが、称徳天皇が淳仁天皇に対して行ったように、
天皇をやめさせるというほど強いものだったかは分かりません。

ただ、前例もあるわけですから
嵯峨天皇にとっては、はいそうですか、って言う訳には行かない

嵯峨天皇の動きは早かった。

伊勢・近江・美濃の国府と故関を固めて戦乱に備える一方、
宮中を厳戒状態におき、平安宮に来ていた藤原仲成を拘禁
その後射殺します。

平城太政天皇は、敗色濃厚になったため、出家。
薬子は服毒自殺します。

変化
この薬子の変は時代を大きく変える要因になります。

まずは、藤原氏内での力関係

先程、藤原南家が没落した事を言いましたが
薬子の変では、藤原式家が没落
残った北家がこのあとの摂関政治へと大きく力を付けることになります。

次に太政天皇の位置付け
これまでは、譲位したあとの太政天皇が力を残しており
大きく政治に関与
二人の天皇的になる場合もありました。

この薬子の変で、太政天皇が失敗したことにより
太政天皇は長くに渡り、口出し出来なくなります。
次に口出しするようになるのは、ずっとあとの院制の時代からです。

次に女性の政治への参画です
それまでは、女帝自体も多かったですが
皇后がかなり力を持っており
何かと政治に関与していました。

この後、そもそも、長らく皇后自体置かれなくなります。

即ち、天皇、太政天皇、皇后が分担しながら政治を行っていたのが
天皇ひとりだけになり
それでは負担が大きすぎるので、
摂政関白といった
替わりに政治を行う仕組みが作られていく訳です。

[天皇]シリーズはこちら(少し下げてね)

[明治]板垣死すとも自由は死せず

明治シリーズです

板垣退助

100円札です
懐かしーい

国会議事堂の中央広場には、3人の銅像
伊藤博文、大隈重信、そして板垣退助です。

幕末
土佐藩です。
藩主山内容堂に嫌われたり気に入られたりと、ころころ
結局は軍事担当者として、西洋式の軍隊を組織します
戊辰戦争では、その西洋式の軍隊が重用され、あっちでもこっちでも板垣退助

明治
その功をかわれ、明治になってからは高知藩の大改革に乗り出します。
中央より早く、板垣が高知藩で「四民平等」を打ち出します。
まだこの時点では、高知の代表的立場だったんだけど
明治四年、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允がやって来て会見
ぜひ高知も長州、薩摩とともに、中心的役割を担ってほしいと言われて、快諾
中央の政府直轄軍に人を出します。

参議を決める際、木戸孝允と西郷隆盛だけだったんだけど、二人だけじゃ良くないでしょうと
木戸孝允が大隈重信も入れようと推薦
それじゃあと、西郷隆盛が推薦したのが板垣退助

そうこうしているうちに、岩倉具視使節団で、大久保利通も木戸孝允も日本を留守にするので
西郷隆盛が大隈重信と板垣退助の協力を得て留守組としてあれもこれも

板垣も中央で活躍するようになります。

留守組は征韓論でまとまるんですが
そもそも板垣退助が言い出した事。

使節団組が帰ってきて、征韓論をねじ伏せられると
やってられるかい、と下野

中央に反発した人たちはやり方として大きく二つに分かれる

一つは西郷隆盛がそうだったように
武力で立ち向かおうとするもの
中央は全力をあげて潰しに来て
結局は西南戦争のように全滅

板垣はこのやり方を取らなかった。
言論による反発

中央は結局は薩長藩閥のものたちが、何でも決めて突き進む
もっと開かれたやり方をしないとダメでしょう
自由民権運動です。
国会というものを作って、話し合いで決めていく政治

愛国公党を設立。愛国社に変更。
民撰議院建白書を提出

やっぱり戻ってきてくれと、大久保利通に言われて
木戸孝允と共に中央に戻る。

戻る条件として、「国会作る」を認めてもらえる。
だから、国会議事堂の中に銅像が立つわけ

よっしゃあ
勝ち取りました。

ただ、すぐにでもという板垣に対して木戸孝允は十分準備をしてから
結局ここでも負けちゃって、10年後に国会開設の詔
でも、国会開設が正式に決まりました。

愛国社はまたまた名前が変わって立志社
10年後に国会か
ようしやるぞと、立志社を見習って、全国いたるところで自由民権結社がポコポコできる
そんな小さな結社に呼びかけて、それぞれをくっつけていってどんどん大規模にしていく。
いよいよ、自由党の誕生です。

大事件
岐阜で、板垣が演説中に刺客に教われます。

板垣死すとも自由は死せず

有名な名ぜりふ

こう言いながら死んだんだとばかり思っておりましたが、違ってたんですね
ここは死んでません

見舞いの品が天皇からプレゼントされたり
殺されかけたということで、板垣人気が急上昇

同じ年、僕も、と大隈重信が政党を作ります。
立憲改新党

自由党の方が大人気です。

正直言うと、比較すると大隈重信ほど板垣退助は頭が良くない。
大隈は政策をどんどん思い付きますが
板垣は、あんまり分かりませーん

周りの人たちは大体分かってます。
板垣の能力の限界

でも、一番その事が分かっているのが本人でした。
私は政策提言能力は無い
だったらその欠点を補うべく足で稼ごう。
色んな会合に顔を出したり、実にこまめにちょこちょこ

数においては、自由党は圧倒します。

でも、板垣は「壊し屋」的性格
どんどん大きくなってくれば壊したくなっちゃう
そういう人いるよね

さらに言うと、権力欲が希薄
伊藤博文や大隈重信に比べると、権力への執着心があんまり無い

結果として、伊藤、大隈は首相になったのに
板垣はなっていない。

一度だけチャンスがあった
自由党と、大隈の党が大同団結
憲政党
今まで、伊藤博文の藩閥内閣だったけど
いよいよ、政党の内閣ができました。

なのに、首相になったのは板垣じゃなく、大隈
私、良く分からないから、大隈さんが首相やってよ
大隈首相、板垣内務大臣という、世にいう隈板(わいはん)内閣です

なのにまた、板垣の壊し屋的性格が頭をもたげてしまいます。
旧自由党メンバーは辞表を提出してしまいました。

[明治]シリーズはこちら(少し下げてね)