[大奥]10 家治。真面目将軍の愛

大奥シリーズ
10代将軍家治になります。

温和で真面目で、とっても頭が良い。
唯一問題点をあげるとすると、政治に全く興味がない。
そうそうに、田沼意次に
全部まかしたっ

正室
閑院宮直仁親王の六女・五十宮倫子(いそのみやともこ)。
12歳の家治に対して、11歳の倫子
ちょうどいい可愛いカップル

まだ若いので、結婚は2年間おあずけ
京を発った花嫁行列は、江戸城ではなく
浜御殿(今の浜離宮恩賜庭園)に入って花嫁修業期間

家治は浜御殿に足繁く通う。

とーもちゃん、また来たよ。遊びましょ。

わーい、嬉しいっ

すごく仲良し。
15代将軍の中でも、こんなに正室と仲良しなのは、かなり珍しいパターン。

でも残念。
8代将軍吉宗が急逝したことでゴタゴタし
結婚はさらに4年間延期

つらい

さらに愛は育まれ
ようやく、江戸城西の丸にお引っ越しして結婚
家治18歳、倫子17歳。
御簾中様(ごれんちゅうさま)と呼ばれるようになります。
まだ将軍は9代将軍家重なので、次期将軍の正室に対する呼び方です。

2年後、待望の愛の結晶、長女千代姫誕生。
でも残念。1年たたないうちに亡くなっちゃいました。

側室
これだけ仲が良いので、徳川将軍につきものの、側室不要と思いきや
残念!そうはいかない。

仕事とプライベートは別。
訳分かりませんが、徳川将軍にとって、お世継ぎをつくるのが、最も重要な仕事

最初に授かった子が女の子であり
その子がすぐに亡くなった時点で、倫子は決意する。

上様。お願いがございます。
側室をお取りください。

えっ。何を言い出すんだ。
私の妻は、倫子以外にいよう筈がない。

これは・・
決めたことでございます。

倫子の顔を見れば
いかに考え続けて出した苦渋の結論なのか分かる。

家治には、続ける言葉が見つからなかった。

哀しすぎます。
どこの世界に、妾を持つよう懇願する正妻がいようか。
誰も幸せにならない。
家治も、倫子も、選ばれた側室だって。

その後も続く仲の良い夫婦関係。
楽しい会話
ある一つの話題にだけは触れないようにして。

大奥を取り仕切っていた松島局が動きます。
お知保を側室に。
判断基準は、元気で丈夫。
そしてさらに一人、お品
こちらは、しゅっとした京美人。

次女と長男
4年後、家重が、将軍を家治に譲渡。
倫子は、御台所(みだいどころ)となります。

翌年、倫子ご懐妊
次女、万寿姫(ますひめ)

そして、さらに、その翌年
お知保が男子を出産します。
竹千代、後の家基(いえもと)です。
お品も男子を出産しましたが、すぐに亡くなっています。

万寿姫は、すくすくと育ち8歳の時に、尾張中将治休(はるやす)と婚約

相変わらず、二人は仲睦まじくすごしておりました。

何だか最近体調がすぐれないの。

倫子35歳。異変に気づいたときは、もう手遅れ。
労咳(肺結核)でした。

お側にいれただけで幸せでした。

倫子ーっ

そして、同じ病で、万寿姫さえも
2年後、万寿姫11歳の時、亡くなってしまいます。

家基
頼みは家基のみ
大丈夫、家基は母親似で、元気いっぱい

18歳まで、ほんとにそうだったんです。

鷹狩りに出掛けた朝は元気いっぱいだったのに
帰ってくると急に発病し
そのまま、二日後には息を引き取った。

あまりにも急だったので
毒殺説も流れたんだけど
後継者争いをしているライバルがいたわけでもないし
得する人がいたとは思えない。

悔しいですね。
「お世継ぎ」のために、嫌な思いをしながらも乗り越えたのに。

またもや、徳川宗家は血が途絶えてしまいました。

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水元公園、こんな公園があったとは。

今日は日曜日
午前中はマンションの自治会だったので
午後だけお出掛けしましょう。

水元公園
ずっと気にはなっていたんです。
絶景本で、水元公園の紅葉が出ていて、実に綺麗だった。

紅葉の時期ではないけれど
すごく良ければ、紅葉の時期にイベントを考えないといけないので、その下見。

例によって、行きの電車の中で、ネットによる下調べ

水元公園って、昔、利根川だったらしい
利根川東遷のために、川がなくなった。
残ったのは小合溜(こあいだめ)という名の溜池
この地域の農業用水路の始点として使うことにした。

その小合溜の周囲を公園として整備したのが水元公園

ネットによると、紅葉もさることながら
桜や花菖蒲が有名らしい

金町駅からバスにのって着くと、花菖蒲まつりののぼり
まだ早いとは思うけど、確かに咲いているかもね。
あまり考えずにすぐに出掛けちゃう私のスタイルの場合
こういう、狙いじゃなかったものにぶち当たるケースが多く
お得感が盛り上がる。

http://www.katsushika-kanko.com/news/updates/post_2164.php
公式ホームページの表現では、2割~3割ほど咲いていますとの事
見た目上もそれくらいかな

でも、ひとつひとつで見るととてもきれいでしたよ


あじさいは、満開でした

それがどうしたと言わんばかりの、イベントの盛り上がりや、出店の盛り上がり
メイン会場では、その時はフラダンスをやっておりました。

カミさんが今、動画を見てフラダンスをやっているけど
本格的に教室に通ってフラダンスを始めたら、こういうところで踊るんだろうなあ

花菖蒲ゆかた撮影会
ゆかたを着た美人のお姉さま方が、花菖蒲をバックにはいポーズ
高そうなカメラを携えたおじ様達が寄ってたかって群がり、パチパチ

いやあ、素晴らしいです。
ああ、そのうなじ
おおっ、そのポーズ
良いもの見せていただきました。
こりゃもう、花菖蒲も満開です。

私が撮影しちゃいけないんでしょうから、遠くから、様子を一枚だけ。

園内地図を見ると、Aゾーン、Bゾーン、Cゾーンとあります。
そういうと、ネットに、都区内最大級の広さとありました。
ひょっとすると、午後だけちょっと来るような公園ではないのかも。

花菖蒲園はBゾーン、とりあえず、Bゾーンの端まで行ってみました。
予想的中
これは広い、を越えた、とんでもなく広い、の範疇。
Cゾーンは丸々諦めないと戻れなくなりそうです。

それにしても、この池、どこまで広いんでしょう

最初のメイン会場の辺りまで戻ってきました。

まだ、フラダンスを踊っています。
今度は、大衆に迎合したように、演歌の歌で踊っています。
♪あーなーたー、なーぜなーぜ、私を捨てーたー
振り付けは、フラダンスの動きでありながら
途中に手拍子、パパン
大爆笑

Aゾーンは、一番広いメインの場所
真ん中に中央広場を配してその周りに色々です。

あっ
ポプラ並木

こんな立派なポプラ並木
東京で見れるとは思いませんでした。

メタセコイヤの森

幻想的な雰囲気がします。

ここの良いところは
木のプレートが充実していること

こんなお洒落なプレートもあります。

木の名前を覚えるのがなかなか思ったように進まない私としては、嬉しい限りです。
特に何が良いって、ここの木は葉っぱが触れる位置にある。

林試の森公園だったり、自然教育園だったりは
出来るだけ自然の森に近い形で植えてある。
そのコンセプトは全面的に賛成できるものの
競争社会の木達は、光を得るために、上へ上へと伸びていき
下は暗くなり、はるか上の方にだけ葉っぱがある
木の幹にプレートがあっても、葉っぱが見えないので
勉強したい私なんかにはさっぱり分からない。

ここは、ひとつひとつに十分なスペースを確保してくれている
そうすると、枝葉は横に伸びて、こんもりしたイメージになる
丸っこい樹形

手を伸ばせば、葉っぱ一枚一枚を確認できる。

中央広場
Aゾーンの真ん中に中央広場
広大な芝生
そういう、公園はいくつか見てきたけど
その、広大さのレベルが半端ない。

普通、広大な芝生の中央広場と言えば、ボール遊びするファミリーだったりがいっぱいいるんだけど
水元公園の場合は、中央広場以外にもいくらでも芝生の場所は有って、そこでやっている。
中央広場はとても人口密度が低い。

おそらくだけど
ボール遊びをしようという家族がやって来て
あまりにも広い広場の真ん中で、ポツンと自分達だけで遊ぶのは寂しいんじゃないだろうか
そういうレベルの、極端な広さ。


ここは、葛飾区なんだけど
本当にここは、23区内なんだろうかと疑いたくなる。

中央広場の周りをぐるっと歩いて回ろうとしたんだけど
もう、これはスポーツであり、根性です。

ようやく戻ってこれました。

だんだん分かってきました。
ここに来る人は、それぞれちゃんとした目的をもって来ています。
そこにだけ行けば良い

釣りだったり、
ボール遊びだったり
ザリガニのような、湿地の虫や小魚を捕まえたり
バードサンクチュアリだったり
バーベキューだったり

色々回りたいという人は歩いていない。
レンタルサイクルが有って、自転車で回っている

とてもみんな楽しそう。
笑顔に溢れている。

日本の良い幸せの縮図を見た気がする。

帰りに、池のごく縁まで行けるところから見ると
これが、昔、利根川の大河だったイメージが良く分かる

それにしても、こんな川幅の広い川を良くも、動かしちゃおうと思ったなと
改めて、家康の利根川東遷発想のスケールの大きさに驚かされた。

どこ行こう、そうだ!おでかけマップ

皇紀2600年って何なのか

最初の頃の天皇は、なぜ長生きなのかの続きです

大革命
気になるのは大革命ですね
紀元前660年、
西暦601年、

さあ、その次は
1861年

1868年が明治維新ですから
幕末のぐちゃぐちゃの頃
その前年が、桜田門外の変
この年は、和宮の公武合体

明治維新はちょっとずれましたが、確かに大革命

皇紀2600年
皇紀2600年と言いますね
母さんに何度も聞かされました。

♪紀元は2600年

提灯行列したのよ、すごかったのよ

1940年(昭和15年)
母さんは昭和4年生まれなので、11歳
鮮明に覚えているんでしょう。
提灯行列なるものは、そんなに嬉しかったんでしょうか

今回調べてみてとてもビックリしたこと。
明治維新で不定時法が定時法になり
太陰太陽歴が太陽暦になったのが、明治5年
この話は大好きです。

でも大きな勘違いをしていた。
太陽暦になったんだから、何の疑いもなく、それは西暦だろうと。
西洋に合わせて富国強兵なんだから。
違ってました。

西暦は使わなかった。
皇紀というものを開発し、それを使った。
昨日お話しした、神武天皇の即位の年を1年と考えて計算する方法です。

西暦と元号の併用ではなく
皇紀と元号の併用。
明治5年までは、干支と元号の併用だったのが変わったのです。

別の視点から言うと
明治5年に、皇紀という考え方が出来たのであって、それまではなかった

皇紀2600年を何で祝うんだろう
1260×2=皇紀2520年、
そう1861年こそ祝うべきなのにと思いましたが謎が解けました。

干支を使っていた時は、皇紀を使っておらず
皇紀を使っていた時は、干支を使っていない。

皇紀は突然、2532年から使われ始めたので
皇紀2520年は誰も意識していない。

皇紀になったとたんに、干支はどうでもよくなったので、60年単位を祝わずに
100年というキリの良さで祝う。
皇紀2600年で、提灯行列

第二次大戦の敗戦後、ようやく西暦を使うようになったので
日本では、西暦ってそこそこ75年程度しか使っていない

元号って世界中で使っているのは日本だけで
西暦の方が便利に決まっているのに
何で改元ってこんなにウキウキするんだろうと不思議に思っていましたが
これも謎が解けました。

西暦って日本人は、まだ馴染んでいないんですね。

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