[出雲大社] 文明王国、出雲国は本当にあったのか

[出雲大社]現人神である国造
[出雲大社] 大国主命。どういう神様なんだろう
[出雲大社]天への架け橋か
の続きです。

文明
国譲りの神話
天照大御神(アマテラスオオミカミ)が大国主命(オオクニヌシノミコト)に
国を譲るよう要請
大国主命が従う。

天照大御神は大和。大国主命は出雲。
出雲に大和に匹敵するほどの文明があったのではないか

長い間それは謎とされてきた。

でも昭和から平成という比較的最近
高度な文明を裏付けるものが見つかった。

銅剣、銅鐸
昭和59(1984)年
出雲大社の東南の方角の、斐川(ひかわ)町の荒神谷(こうじんだに)遺跡

大量の銅剣が見つかった。

それまでに日本で見つかっていた銅剣は約300本
なんとここでは、358本の銅剣が見つかった。
あっさり追い抜いちゃった。
時代は弥生時代

上下を互い違いにしてできるだけコンパクトになるようにして埋められていた。

国宝に指定され
古代出雲歴史博物館に展示されている

一体何のためのもので、何のために埋めたのか

普通に考えれば、戦争目的だし
伝来元の中国では、そのために使われている。

ところが、日本に来てから、大きさが大きくなっていった。
特に、ここで発見されたものは大きくて重すぎ
とても振り回せるものではない

さらに、木の持ち手に差し込んで固定するための穴がない
武器として使っていたとは思いがたい。

祭事のような別の用途があったのではないか。

さらに、銅鐸6個、銅矛16本

そして、平成8(1996)年、荒神谷遺跡の東南にある加茂岩倉遺跡から
銅鐸が39個も見つかった。
一ヶ所から見つかった銅鐸では過去最高

伝来元の中国では、銅鐸は、牛や馬の首にかけるベルのような役割で、小さなもの
それが、日本に伝わって巨大化していく
それと同時に、装飾も加わっていく

ここで発見された銅鐸は、大きい銅鐸の中に小さい銅鐸がすっぽりおさまって
コンパクトな形になって埋められていた。

これらの銅鐸は、鋳型に銅を流し込んで作られるんだけど
同じ模様、すなわち同じ鋳型から作ったのではないかと思われる銅鐸が
関西や九州でも見つかっている
さらに作られた年代もかなり長きに渡っている

何を意味するんだろう
単純に銅鐸好きのコレクターが集めたのか
出雲国が広い範囲、長い時代に渡っていたのか

銅鐸や銅剣はある時期以降では、ピタッと出土されなくなる
鉄に取って替わられたとも考えられる。

四隅突出型墳丘墓
そして、銅剣、銅鐸がなくなった時代
出雲地域に不思議な形の墓が出現する


こりゃまた不思議な形

この形は、出雲にしか見られない。
それ以外の地域には、大和に象徴される、前方後円墳が全国的に広がっていく。

やはり出雲には出雲王国があり
大和によって征服され
古事記や日本書紀の国譲り神話として、象徴的に書かれたのか

ただ、両者間に、大戦争があったとすると、あるであろう
戦争に関わる出土品が出雲には今のところ全く見つかっていない。

とすると、出雲は大和に平和裏に傘下に入ったのだろうか

出雲はかなり独特なスタンスで大和との関係を保っていたのかも知れない

その辺の話をまた、次回話していきたいと思います。

[神社]シリーズはこちら(少し下げてね)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です