[昭和歌謡]131 恋の予感

昭和ヒット曲全147曲の真実シリーズです

恋の予感
安全地帯
作詞・井上陽水、作曲・玉置浩二
1984年

♪なぜなぜあなたは きれいになりたいの
 その目を誰もが 見つめてくれないの
 夜はきままに あなたを踊らせるだけ
 恋の予感が ただ駆け抜けるだけ

陽水的な歌詞です。
女性が自分に、あなたと呼んで問いかけている

また、こういう世界を具現化して歌えるのは
井上陽水以外で言うと玉置浩二しかいないでしょう。

ワインレッドの心もこのコンビです。
元々安全地帯って井上陽水のバックバンドだったんですね

井上陽水と玉置浩二の、夏の終わりのハーモニーは印象深いです。
2年前、31年ぶりの競演ってNHKの企画で夏の終わりのハーモニー
玉置浩二にとっては、人生の全てを教えてもらった絶対的師匠

陽水の前では直立不動

分かります。私だって陽水は神です。
私の青春は陽水や泉谷しげるや拓郎とともにありましたから

かたや陽水は、玉置浩二との競演がよほど嬉しかった様子。

玉置浩二が病気で入院し
全ての音楽活動を休止してしまった。

この時も、何十年かぶりにひょっこり病室に現れ

浩二〜、おまえ歌なんか歌わないでなにやってんの、こんなところで
さっさと歌いなさい
じゃあね

玉置浩二は
あぁ、がんばらなきゃな〜、って思って。
そういえば、ずいぶん勝手に自分で難しくなってたんだな
音楽やればいいんじゃないか

そうすると

こういうのが師匠なんでしょうね
ずっと連絡取ってなくても
肝心な時に、相手がどんな気持ちでいるか分かる。
おそらくその「言い方」はふたりの間ではそれしかあり得なくて
気持ちのねじれをニュートラルに戻してくれる。

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[首相]10-2 原敬。最後のワイン

[首相]10 原敬。東北からの平民宰相。
の続きです。

桂園時代
伊藤博文が枢密院議長になったため、政友会総裁を辞任。
後継は西園寺公望。
西園寺は、党の運営をまるっと原敬に任せる。

桂太郎と西園寺公望が交替で首相をつとめる桂園時代に突入

その間、2度、内務大臣をつとめ、実質的に内閣を主導した。
その間、藩閥政治の親玉、山県有朋とも関係を保ちつつ
じわりじわりと藩閥の切り崩しを図っていく。

山本権兵衛、寺内正毅の内閣を経て
いよいよ期が熟してきた。

西園寺公望は山県有朋と話し合い、とうとう原敬の首相就任を認めさせる。

政党と藩閥
最初は、明治維新の功労という意味からも、藩閥政治となり
そこからはみ出た板垣退助や大隈重信が政党を作り、藩閥政治と対決するという構図だった。

でも、藩閥政治のスーパースターである伊藤博文自身が、この構図に疑問を持つ。
伊藤博文が政友会という政党を作ってしまう。

その後の政党は、政友会が中心になっていく

その政友会が伊藤博文のあと、西園寺公望が継ぎ、原敬が総裁となる
原敬は東北、即ち賊軍出身
藩閥から生まれた政党が大きく飛躍した事になる

その時代の変換は、偶然にやって来たものではなく
原敬が入念に計画し、藩閥政治の切り崩しと、政友会の勢力拡大を
じっくりと同時並行していったたまものだと言える。

原敬は小選挙区も取り入れた選挙法の改革を行い
その上で解散に討って出る
定員464人の内、278の議席を確保
圧勝しました。

そして、その安定した議員の数の論理を背景に
数々の改革を進めていきます。

政友会の四大政綱
「教育の充実」
「交通通信機関の整備」
「国防の充実」
「産業振興」

それがそのまま、原敬首相の政策となります。

東京駅で
大正10(1921)年11月4日
一昨日だったんですね。

19時
原は芝の自宅を出て東京駅に向かいます。
翌5日に京都で行われる政友会の近畿大会に出席するため。

乗るのは、東京発19:30の神戸行の急行
19:20駅長室に入った。

どうもどうも

同行するメンバーは全員揃っていた。
しばし歓談のあと、
そろそろ行きますか

案内の駅長と原敬が並んで歩く。

突然物陰から一人の青年

体ごと、原にぶつかった。

まさに一瞬の出来事
隣の駅長は、何が起きたのか分からなかった。

崩れる首相

首相ーーーっ

駅長室に運ばれ、駆けつけた医師が応急手当

ワインを口に含ませたのを最後に、息を引き取った。

犯人は中岡艮一(こんいち)大塚駅の職員。18歳
原の政策や外交方針に不満があり犯行に及んだ。

息子の奎一郎さんは語る
父は、毎日夕方ワインを飲むのが好きで日課としていました。
末期の水がワインだったというのは感慨無量です。

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[天皇]66 一条天皇。幸せな天皇(枕草子)と哀しい天皇(源氏物語)

一条天皇
986~1011年

出ましたっ、一条天皇
最も雅なる時期
ただ、幸せいっぱいの天皇は
後半になると哀しい天皇に様変わりします。

幸せなる時期は、清少納言の「枕草子」の時期であり
哀しい時期は、紫式部の「源氏物語」の時期だとも言えます。

円融天皇が会わせてもらえなかったあの一人息子です。
わずか7歳。

ということなので、摂政は藤原兼家ということになります。

息子たちを強引に出世させ、大満足のうちに4年後に死去。
さあ、これから摂政関白がころころ入れ替わっていきます。

次は息子の道隆。

その年、一条天皇は元服
道隆の娘、定子を奥さん(中宮)とします

一条天皇は穏やかな性格。
文学を愛し、風流を解します。
同じく、文学に長けた定子と仲睦まじい夫婦。
笑顔の絶えない様子を、定子に仕えた清少納言が描いたのが、枕草子だと言えます。

最も幸せな時期。

でも、長くは続かなかった。

道隆が、病気を患い、悪化していった。
道隆としては、いよいよとなる前に息子の伊周(これちか)に譲位し、
出家して安らかな最期を迎えたかった。

一条天皇からすると、愛する定子のお兄さん
良いんじゃないの?と思うけど
いかんせん、伊周本人の人間性として、あまりに周りからの人望が無さすぎた。

関白代行を伊周とする勅命が出された。
「関白の病の間、官・外記の文書は内大臣をして見せしむべし」
ところが、伊周はこれを改竄しようとした。
「関白の病の間」を「関白の病の替」に。
間となるとあくまでも代行。もし、道隆がそのままかえらぬ人となれば
必然的に関白代行の職も消えてなくなる。

元々いけすかないと思っていたが、この強引なやり方に一気に不信感が高まる。

関白代行の実に3日後に道隆が亡くなる。
それでも、関白代行の伊周が関白になるかと思われた。
20日後、関白に指名されたのは、道隆の弟、道兼だった。
さらにビックリした事に、その道兼、関白になって10日ちょっとすると
亡くなってしまう。
その時点で重病人だったのを知りつつ任命
伊周、よっぽど嫌われちゃったのね。

長徳の変
それでも伊周、真面目にやっていれば浮かび上がる事もあったかも知れない。
やけになったのでしょうか。事件を起こします。
女性関係の勘違いから、弟の隆家と共に、花山法皇に対して暴力を奮います。
完全に頭に来た一条天皇。伊周と隆家を、流罪とします。

この決定、伊周にとって決定的でありましたが
決定を下した一条天皇にとっても、哀しい転換点となります。

お兄さんが不祥事を起こした、妹定子が、自主的に宮殿を出たのです。

定子ーっ

さあ、次の関白は?
すぐ死んじゃった道兼のさらに弟、道長です。

哀しい天皇時代に突入します。
続きはシリーズの次回ね。

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滝野川散策

だめで、だめで、旧古河庭園
の続きです。

無量寺
とても手入れされた綺麗なお寺さんでした。

猫が数匹いたのですが、いずれも寺の飼い猫だそうです。
のんびり楽しそうでした。

城官寺

平塚神社

滝野川公園を経て

蚕糸学校発祥の地

文明開化です。

飛鳥山公園
何度も来ていて見所いっぱいなのですが、今日はその先に行きたいので通過点。
ひとつだけ確認したかったのが、船津翁の碑

船津伝次平さんの碑です。
明治の初めに、日本三老農の一人に数えられた人

農業の技術を研究し実践し広めていった。
さっきの蚕糸学校で教えていたそうです。
繋がった!

上毛かるたにもあるらしいですよ

ということは、群馬県民は100%船津伝次平さんのことを知っているということになります。
超知名度ありますね。

飛鳥山公園に来たらその中のお食事処でさくらうどんを食べなきゃ
もう4回目

飛鳥山公園の横が都営荒川線(さくらトラム)が唯一車と同じ路面を走る場所
路面電車と言いつつ、ここ以外は全て専用の線路なのよね

醸造試験所跡地公園

お酒の醸造を大蔵省が研究していた場所
お酒は税収上重要だからという理由なんだとか。


すごくかっこいいレンガ作り

ここから石神井川沿いを歩きます。

正受院
鐘楼門がとても印象的


こういう中国スタイルの鐘楼門を見たのは私は二回目です。

戦前まで、明け六つと暮れ六つに鐘を鳴らしていたそうです。

近藤重蔵の甲冑像があります

近藤重蔵は択捉島に「大日本恵登呂府」という柱まで立てちゃった人
詳しくはこっちを見てね
北海道と言えば、最上徳内と近藤重蔵

通称赤ちゃん寺と呼ばれています。


お菓子とかおもちゃとかがいっぱい置いてあります。


目頭が熱くなって来ちゃいました。

音無さくら緑地
最初に認可を受けた音無温泉があったところ
こんなちょっと変わった形の緑地

元々川が蛇行していた処を利用している



金剛寺
通称紅葉寺

紅葉の季節には見事なんだろうなあ
石仏の金剛力士像は、ちょっとユーモラス

ここは昔、武蔵の豪族、豊島氏の一族である滝野川氏の居城滝野川城だった。
なるほど、それで謎が解けた
石神井川沿いの地名がなんで滝野川なのか
川の名前じゃなく、人の名前だったのね

弁天堂

弁財天だけじゃなく、七福神全員の石像もありました。

GoogleMap に、松橋弁財天洞窟跡とあって、寺の外
あれここじゃないのかなあ

外に出て回り込んでみると

えええっ
なんじゃこりゃあ



昔、川が蛇行していて、その川岸が崖になっていてそこに洞窟があった
その洞窟の中に弁財天が祀られていた。

四本木稲荷神社
かつて陸軍の弾薬工場があった場所

はい、撫でました。

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