大門からのウォーキングの続き

練塀特別見学会
練塀特別見学会、その2
大門からのウォーキング
の続きです

瑠璃光寺

佐藤直方の墓があります
山崎闇斎の弟子。浅見絅斎、三宅尚斎と並んで「崎門の三傑」と言われています
赤穂浪士の討ち入りのあと、世の中の風潮が浪士たちを讚美する方向にいくなかではっきりと批判しています

心光院


お竹如来の流し板が納められています
江戸大伝馬町の名主佐久間勘解由家のところの下女お竹は、生れつきいつくしみの心が深く、朝夕の自分の食事を貧しい人に施し、自らは水盤の隅に網を置いて、洗い流しの飯が溜ったものを食料とした
この話にいたく感動した5代将軍綱吉のお母さん桂昌院は
お竹さんの使った流し板を心光院に納めた

日本橋にもお竹如来の使った井戸が残っているんですが
この話本当にすごいなあと思う
お竹さんって身分も何もない、ごくごく一般の下女なわけです
すごく働き者で、自分も貧しいのに、自分の食べ物を貧しい人に分け与える

その評判を聞き付けて偉いお坊さんがやって来て
お竹さんは大日如来の生まれ代わりだという

おおっ、確かにお竹さんには後光がさしている
もちろんそんな訳はないのですが、江戸中で超人気者
お竹さんを拝もうと方々から人が押し掛けます

こういう人が評判になるって良い世の中ですね
どんな人でも真面目にコツコツ頑張ろうって気になる

日本経緯度原点


以前、永田町で日本水準原点というのを見たけど
こっちは、経度緯度の原点
日本水準原点もそうだったけど、こちらも東北大震災の時にずれたので修正
改めて、すごい地震だったんだなあ

明和の大火の供養墓
江戸は大火だらけ。
明暦の大火に次ぐ二番目の大火が明和9年の大火
行人坂の大円寺が火元。ここにも以前行きました


明和9年が「迷惑」に繋がるということで、元号が明和から安永に変わる

栄閑院
猿寺と言われています
猿回しがこの寺の住職さんの好意で住んでおり
猿回しも披露されて大人気
いたるところに猿




水子地蔵もとても可愛い

さあ、ここは私の大大大好きな杉田玄白の墓があるのです

杉田玄白と前野良沢は性格が正反対
テキトーだけど社交的な杉田玄白、
くそ真面目で無茶苦茶勉強家だけど人としゃべる事が大の苦手な前野良沢
お互いに自分にないものを持っているから大の仲良し
解体新書はほとんど前野良沢が翻訳したのに、完全じゃない部分があって気にくわないから
著者に自分の名前を出さないでくれと頼み、杉田玄白や中川淳庵の共著ってことになっている
超ベストセラーになり、一躍時の人に

さらにひと儲けと後日談を書いた「蘭学事始」もベストセラー
でも杉田玄白いい人なので、「蘭学事始」で
実はほぼ前野良沢が書いたんですわ、と暴露しちゃっている

愛宕山の愛宕神社を横目で見る

懐かしいなあ愛宕神社
ウォーキングイベント中に起きた衝撃びっくり事件
笑顔でテレビに出ちゃうかもよ
愛宕神社の横に真福寺

ここは、幕末から明治始めにかけてオランダロシアフランスの使節たちの宿舎になりました。

一通り予定したところを終え
最後の目的地へ
実は、練塀ともうひとつ行きたいところがあったのよね
いざ汐留へ

汐留でキックボード返せれば良かったんだけど
LUUPの地図がうまく表示されず
結局、大門の元借りた場所まで戻って返した
3時間で980円のクーポンは使えなかったけど、これだけいっぱい回って1500円
まずまず

カレッタ汐留
カレッタ汐留の中のカフェEJEVAR(エジェバル)でやっているイベントに行きたかった
EJEVARに入って
お願いしまーす

ごめんなさい
席はあるのですが、VRゴーグルが全て出来っておりまして
要するに、満席ということになります

残念ーっ

VRゴーグルってこういうやつ

これをつけると目の前に立体的な空間が広がり、右を向けば右左を向けば左が見れるはず
まだ見たことないのでテキトーに行っています

期間限定のここでのイベントは「江戸時空」

なんとなんと目の前に立体的な江戸城がっ

立体的な江戸城なんてこの先死ぬまでに見れるだろうか
白いので、おそらく2代将軍秀忠の頃の2代目江戸城だと思われます

このあとのは「熈代勝覧(きだいしょうらん)」を元にしているというから文化文政のころ
11代将軍家斉の頃です。


ああ、見たかったあ

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大門からのウォーキング

練塀特別見学会
練塀特別見学会、その2
の続きです

マストの広場
練塀特別見学会より前の時間帯になります
まずは、大門からずっと南へ
竹芝桟橋です
マストの広場

そうか、ここから諸島に船で行けるのか
ちょっと高いのでかなり気を入れないとですが
いつか行ってみたいなあ

ここに来た目的は、マッハッタン号遭難の碑を見ること
ずいぶん探したけどないなあ
工事中で入れないエリア
あったあ、あれか

1845年、捕鯨船のマンハッタン号は船の修理のため、父島に立ち寄る
帰路、鳥島で小さな難破船を発見
船が壊れて数ヵ月前から、ここにいた日本人11人を救助
さらに偶然にももう一隻漂流船を発見、日本人11人救助で合計22人
日本へ送り届けようと、進路変更
ところがここから海が大荒れ
でも諦めないクーパー船長

7日間も波に揉まれ、ようやく房総半島にたどり着く
何せ鎖国中、いかなる理由であれ外国船は拒否
22人の日本人はどうすりゃいいのとすったもんだ
その間のクーパー船長たちの誠実で友好的な対応に、例外中の例外が認められた
マンハッタン号が帰るときは
サンキューベリマッチ。どっさりお土産をお渡しした

首尾稲荷

この場所は、金色夜叉の作者、尾崎紅葉の生誕の地
名前の「紅葉」はすぐ近くの増上寺の中の紅葉山からとっています

常照院
廣度院のお隣です

ここには、城木屋お駒のお墓、及び白子屋お熊の供養碑があります

城木屋お駒として落語が作られ大人気
いくらお駒に言い寄っても相手にされない丈八
想い余って、無理心中をはかろうと忍び込んだが失敗
泥棒として捕らえられる

お裁きはご存知大岡越前

丈八 「白状申し上げます。もとはと言えば東海道五十三次から出ましたことでございます。はじめお駒さんの色品川に迷い、川崎ざきの評判にもあんな女子を神奈(かんな)川に持ったなら、さぞ程もよし保土ヶ谷と、戸塚まいてくどいても首を横に藤沢の、平塚の間も忘れかね、その内大磯、こいそとお駒さんの婿相談、どうぞ小田原になればよいと、箱根の山にも夢にも三島、たとえ沼津、食わずにおりましても原は吉原、いまいましいと蒲原立てましても、口には由比かね、寝つ興津、江尻もじりいたしておりましたわけでございます」 

越前 「東海道を巨細(こさい)にわきまえおる奴。してその方の生れは」

丈八 「駿河の御城下で」

越前 「不忠(府中)ものめ」

これ、初めは三題話といって、お客さんからお題を3つもらって、即興で作った落語
三つのお題は「江戸一番の評判の美人」「伊勢の壺屋の煙草入れ」(この部分は省略)「東海道五十三次」
最後の宿場町の名を組み込んだ口上なんて、もし東海道五十三次のお題が出されたらと準備しておかなきゃ出来るもんじゃない

さらに、白子屋お熊の事件という凶悪事件があり、これも大岡裁き
城木屋お駒と白子屋お熊はイメージが複雑に絡み合いつつ、浄瑠璃でも大人気になります

このあと廣度院の練塀特別見学会に行きました
そしてその後、食事をすませて午後
午後になっちゃって、なおかつ予定している場所がそこそこ広範囲
ってことで例の秘密兵器Luup
3時間で定額980円のクーポンも買ったのさ
前回は電動アシスト自転車だったから、今回こそ電動キックボード

あれれ、どこ押すんだったっけ
クーポンコードを入力する画面が出てこない
仕方ない普通に乗る事にしよう
(あとでやり方は分かりました)

増上寺

芝丸山古墳(前方後円墳です)

東京タワー

を横目で見つつ

金地院

出ましたっ
天海と並び江戸初期に、武家諸法度を起草して江戸幕府の強固な基盤を築いた金地院崇伝(こんちいんすうでん)
家康の政治顧問。超大物のお寺でございます

南部藩代々のお墓もあります

向かい鶴

まだまだ続きます
続きは次回

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練塀特別見学会。その2

練塀特別見学会
の続きです

練塀の内部
さあいよいよ練塀の内部見学です
いかに本途帳の以下の絵と一緒か確認しましょう
図面には内部に瓦を組み合わせた5つのアーチ状のものが書かれています。
これは何なのかというと雨を外に逃すためのもの

練塀の上には瓦屋根が乗っかっているので、雨は中に入ってこないと思いきや
残念ながらやっぱり浸透してくる
それを外に逃すための構造
その構造が、5つ書かれている

対する現物がこれ


解体時のスライドの方が分かりやすいかな

水分を最後に外に逃す場所の瓦は長めになっているのもそのとおりだった

中の瓦は一枚きれいなものならベストなんでしょうが
コストがかかりすぎる
江戸って高度なリサイクル社会なので壊れた瓦は取ってある
それを埋め込み、パッチワーク的にきれいに組み合わせていっている

私は全くの素人なのでとんちんかんな事言いますが
あの5層の瓦って、水を逃がすだけじゃなく、別の目的もあるんじゃないかという気がする
設計図を見て私には五重の塔に見えた
日本建築の最高峰
地震の国日本おいて、地震に強いモビール的構造で力を分散させる

上からの力を中の瓦が横にずれる事で力を分散させるとか
塀が壊れる横揺れに強いとか

電車の板バネにも似ているような

練塀を含めた土塀の大きな役割は、火災に強いと言うことでしょう
江戸は何度も大火に見舞われた火災都市
塀で類焼を食い止めたい

実際に、東京大空襲の時に廣度院も、その練塀も火災に見舞われた。
そのあとがこれ
赤く変色していますね

またこちらの瓦はボロボロになっている。瓦は自分が焼いて作られた時の温度を超えるとボロボロになるらしい。
火災の温度はそれを超える

これは建物側で見られるが、道路側では見られない
火災を食い止めたという事ではないか

副住職さんは貴重な戦争遺産なので、できるだけこのままの形で残したいと言っておられた。

先代の住職さんの時に、練塀の屋根を張り替える補修工事を行っている
その時、下まで雨が浸透しないよう瓦の下をモルタルで固めた
それがこの三角の部分

先生は、この処置がここまで良い状態で中を保てたひとつの要因だろうと言っておられた

ここから、先生が中心になって戻していく作業に入る
同じ材料を同じ場所に戻すため、チョーク等でマーキングしたあとがあった

それぞれの瓦で、弱っているものは壊して強化する材料を混ぜた上で同じ形に復元するらしい
積んでいくときも同じ工法で積んでいく
木枠を組み、間を糸で繋ぐ
その位置に来るまで、30cmの厚みの土が5cmになるまでガンガン突く。突いて突いてまた突いて
糸のところまで来たら瓦を置いていく
気の遠くなるような作業

間地石
練塀のさらに下には基礎として間地石(けんちいし)が置かれる
お隣の工事で、練塀の延長線上の歩道の下から、きれいに間知石が見つかった

お隣さんは良い人なので、貴重なものだと話しすると
じゃあそのまま引き上げて、みんなに見える形で展示しましょうと言ってくれた
それがこれ

3層に積まれていた
外側は四角で中側が三角に削られ、その間の空間に裏栗石という砂利が敷き詰められる
水はけを良くしておかないと、水がたまって中から崩れるから
この三角の角度は、石材が豊富だった江戸初期はそれほどでもなく奥まで四角っぽいんだけど
後期になってくると、三角の角度がより鋭角になってくる
工事の現場で三角に削られ削られた残りはそのまま裏栗石として使う
今回の発掘で、一層目と二層三層目が、石の材料も違うし角度も違うことが判明
一層目と二層三層目は時代が違う
おそらく江戸初期からも練塀かは分からないけど塀が同じ場所にあって
おそらく享和2(1802)年に1層目の間知石だけを残して、二層目三層目、さらにその上の練塀を全く新しく作り直したのではないだろうか

ああ、面白かった。

これで終わりではありますが、何と言ってもでーこんでございます。
浜松町まで行ってこれだけで帰る訳はございません。
この前後にウォーキングをしております。
その様子は次回

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練塀特別見学会


以前、増上寺の子院、廣度院(こうどいん)で練塀(ねりべい)の話で大盛り上がり
練塀について考える。その1
練塀について考える。その2

その廣度院から手紙が届いていました
もしやあの話?と思いましたが、何せ受験中だったので封も開けずにそのまま
受験が終わって思い出し、開けてみると

やっぱり!
練塀特別見学会

お隣との境界の関係で、練塀をほんの一部一旦取り壊す必要がある
その時、中が見れる。みんなで確認したいので、住所を書いてもらえると、と言われて書いていた

9/8(金)と9/9(土)
間に合うじゃないか
9/9(土)10:00からの回に参加します。と返信ハガキ

練塀特別見学会
大反響だったらい。
200名を超える申込み
9/8は台風だったので、その分9/9に回数を増やして移動してもらってと大忙し

今日10:00からの回は、40名ちょっとで超満杯

まずは、工学院大学客員研究員の菅澤先生がスライドを映していただきながらのお話
今回の練塀解体調査を実際にやっていただいた、とても詳しい先生です。

江戸時代には江戸中のあちこちに存在していたはずの練塀
今は本当に数ヵ所にしかないとても貴重なもの

隣のビルとの境が、隣のビルの建て替えに伴い繋がっている部分を解体し作り直す必要があって
中を調査する機会を得た
最初心配していたのは、年数が経っているため、中が崩れて空洞のようになっているのではないかということ
見てみると、その心配は全く杞憂のものでした
実にしっかりした仕事がされており、本途帳(ほんとちょう)と寸分たがわぬものでした

本途帳というのは、当時の最高峰の建築集団「甲良組(こうらぐみ)」が江戸城を作るときに設計書兼作業指示書として作成されたもの
そこに練塀のページがあり、江戸城内の塀はその構造で作られたものだと思われる

今回の調査で初めて練塀の中が詳細に明らかになったが
本途帳(ほんとちょう)に書かれたものと構造も材料も寸法も全く異ならなかった
そして驚くべき事に、崩れもなければ歪みもない
我々が古い構造物を調査するとき、どれだけ歪んでいるかから入るのですが
それがほとんどなかった
私が経験した中で、見事な仕事というべきもの

各地方の練塀をひとつずつ説明していただきましたが
やっぱり江戸の練塀と各地方の練塀は若干考え方が違う気がする

あと、面白かったのが、増上寺三解脱門の横の練塀
明治以降に継ぎ足している
解散後、私が写真撮りに行きました
ここ

そのあと、副住職さんがさらに色々解説していただいた

一通り解説が終わったので、思わず私が質問
調査結果として、この練塀は享和2(1802)年のものということになりますか

それは分からない
増上寺の三解脱門の両サイドの部分はおそらくそうではないか

確実な証拠がない以上、先生も副住職さんも言い切る事は出来ないでしょうから
変わって何の責任もない私が断定することにいたしましょう

廣度院の練塀は、甲良組が享和2(1802)年に作ったものが、そのまま残されています。
享和って寛政の次で文化文政の前
松平定信が寛政の改革を行ったすぐあと。
将軍でいうと11代将軍家斉です
今から220年も前
そんな前のものがそのまま残っていて、その中身をこれから見に行こうという訳です
こんな大興奮がありましょうや

そして、修復も先生が担当するのでそのやり方の説明もあった
瓦とかの材料をチョークとかで印をつけ復元出来るように覚える
材料は基本的に同じものを戻していくが
強度をアップするためにある薬剤を入れて、瓦を固め直す
土の部分も基本的に同じ材料で同じ工法で戻していく
30cmの厚みの土なら、5cmになるくらいまで上からどんどん叩く
だから築地塀

解説が終わったあと、参加者の一人が先生に
ここのこの材料は石灰じゃないと思います
おおおっ。すごい。
3人のグループで来ていて、建築関係の材料を扱っている会社の人たち
いやあ、今回のこの調査がいかに色んな方面の人に注目されていたかということ

さあこのあと、いよいよ現物を見に行くことになります
次回その続きをレポートすることにいたしましょう