[三種の神器]草薙剣。その姿は

三種の神器シリーズ
[三種の神器]草薙剣。不思議なことだらけ
の続きです

草薙剣(くさなぎのつるぎ)
草薙剣は、目撃証言があります
三種の神器は、天皇たりとも、絶対に見てはいけないのですが
禁を破って見ちゃった

『玉籤集(ぎょくせんしゅう)裏書』より。以下意訳
「熱田の大宮司は、社家の者数人と語り合って密かに御神体を見た。
内陣に入ったところ、雲のような霧が立ちこめていてほとんど見えないので、
扇で払い出して、隠し火によって見たところ、長さ約五尺の木箱があった。
(中略)
御神体は、長さが二尺七~八寸(81~84cm)、刃先は菖蒲の葉のような形をしており、
中ほどはムクリと厚みがあって、柄のほう六寸(18cm)は節立っていて魚の背骨のようであった。
色は全体的に白いという。
大宮司が御神体を見たことは神の意にそぐわなかったのか、
思いも掛けないことで流罪となり、
その他の者も重い病や悪い病によって死ぬこととなったが、
そのうち一人だけ幸いにも死をのがれた者がこの事を伝えたものである。
その者、松岡正直より私に伝えられたものだ。」

この証言、怪しいが、草薙剣の姿を語るにおいて定説になっている
正しいとすると、両刃の白銅剣、かなりの長剣である

見たら死んじゃったエピソードはツタンカーメンの呪いのごとく
盗難防止のための古典的な手法だと思われる

三種の神器の作者、戸矢学さんは、色々な観点から、その姿を考察している

草薙剣と同様に、スサノオからアマテラスオオミカミに献上され、
天孫降臨の際、ニニギノミコトに与えられた剣に布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)がある
この布都御魂剣は内反り(うちそり)である

内反りというのは、カーブしている内側に刃が付いている
一般的に日本刀は外反り。カーブしている外側に刃が付いている

外反りでないと人は切れない
内反りだと振り下ろしたあと、手前に引かないと切れない

用途が違う
内反りなのは、草を刈る鎌
草を刈る鎌は手前にさっさっと引きながら草を刈っていく

戸矢さんは、草薙剣は、内反りだったのではないかと推測している

古事記日本書紀を何度見ても、草薙剣は戦闘用具として使われていない
ヤマトタケルが草を刈っただけ

天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)を草薙剣(くさなぎのつるぎ)と名称変更した
草薙剣の名前の謎
始めから、鎌の用途だったのではないか

途中で名称変更した謎
尾張氏の熱田神宮に置かれた草薙剣を返さなかった謎

ここに、戸矢さんは大胆な説をとなえる
天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)と草薙剣(くさなぎのつるぎ)は別物
だから、返さなくても怒られなかった

最初、剣は銅製の渡来のものだったけど
せっかくの機会なので
三種の神器たるもの日本製でなきゃならず
日本で鉄の製造技術も整ったので、鉄製のものが作られて、それが分身となった

本体と分身は同じものである必要はなく、
「本体と同じであることが公に保証」されていればいい

残念ながら、ちょっとだけ矛盾している気がする
草薙剣と名前を変えたのは尾張氏
目撃証言だと、草薙剣は銅製で、両刃、すなわち内反りではないんです

銅製と内反りの組合せがいまいちなんですが
少なくとも2種類以上ある、ということは
名前をわざわざ変えていることからもそうじゃないかと思われます

ただ、あくまでも三種の神器として認定されているのは「草薙剣」であって
天叢雲剣ではなく、本体は熱田神宮のものとされています

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[ことば日本史] ビタ一文

ことば日本史、室町時代から

平安時代に行われていた貨幣の鋳造は、律令政府の支配力が衰えるとともに、打ち切られた。
その後、なんと600年もの間、日本では公式な貨幣は作られなかったんです
今では考えられませんね

じゃあどうしたか。
中国のお金を日本国内で使ったんです
平安末期になると、唐の銭貨が日本に流入し、
鎌倉時代には宋銭、室町時代には明銭が輸入された。

ところが、大変な事態がおきます
それまで質の良い銅銭を日本に輸出していた中国の明が、
戦争や国内政策の変更によって明銭の鋳造をストップ
日本に明銭が入ってこなくなります

お金がなければ、経済は成り立ちません
仕方ない。お金を作ろう

あちこちで、明銭を真似てお金を作ります

今なら、偽金作りは大罪ですが
無いんだから仕方ない理論です

模造銭や私鋳銭。
特に質の悪いお金を鐚(びた)銭と言います

鐚(びた)銭は、一度受け取ってしまっても
次の取引で受け取ってもらえるとは限りません

受け取り拒否の事を「撰銭(えりぜに)」と言います

できれば受け取りたくありませんが、無いものはない
よし、鐚銭2枚で、一文なら良いよ
一般的には割り引いて流通させていました。

「ビタ一文負けられない」とは、そんな
鐚(びた)銭の一文でさえも負けられないということです。

ただ、明銭が入ってこない以上、どんどん状況は悪化し
経済にかなり影響が出るようになりました

そこで、室町幕府や大名の大内氏は「撰銭令」(えりぜにれい)を出します
特に質の悪いお金は省きますから、撰銭(えりぜに)はしちゃいけません
割引もしちゃいけません
室町幕府の撰銭令は、作ってもいけません

現実の事が何も分かっていない人が作る法律はろくなもんじゃありません

それに比べて、やっぱり物事が分かっていたのが織田信長
織田信長の出した撰銭令は、お金を質によって3段階に分けて
価格差を容認した

公に認められた鐚一文

その後江戸時代になって、ようやく日本でも公式な貨幣が作られるようになります

もったいないから、銭形平治が投げていたのは、鐚銭かもしれませんが

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[迷信]『十戒』はつくり話ではなかった?

「科学で読み解く迷信・言い伝え」からのシリーズ

海が割れる
海が割れて、道ができる。旧約聖書の出エジプト記に、そんな場面が書かれている。
奴隷状態となっていたイスラエルの民を引き連れて
エジプトを脱出したモーゼは、
ファラオの軍隊から逃げ延びようとしたが、目の前を海に阻まれた。

もはやこれまでかと思われたとき、
ひるむことなくモーゼが手をかざした。
すると、海がふたつに割れて、海底だったところに道ができた。

モーゼの一行は、そこを通って脱出した。
ファラオの軍も同じように進もうとしたが、
そのときには海はもとに戻り、みなおぼれた。
そしてイスラエルの民は無事逃げることができたのである。

映画『十戒』にも描かれたので、
キリスト教徒以外の多くの人にも知られているエピソードだ。

海が割れるなど起こるはずもないため、
これをつくり話だと考えている人は多い。

しかし近年、これは単なるつくり話ではなく、
現実に起こったことではないかという研究成果が注目を集めている。

2014年に米国の気象研究者のグループが
コンピュータでシミュレーションした結果、
本当に海が割れて道ができた可能性があるというのだ。

聖書には「一晩中ずっと強い風が吹いて、
それによって海水が押し分けられ、陸地に変わった」
という記述がある。
研究者たちはここに着目した。

そして、1882年にエジプトへ軍事介入した
英国軍の記録をもとに推測を行ったのである。

エジプトを縦断して流れるナイル川は
最後に地中海に流れ込むが、
その河口付近には、ナイルデルタと呼ばれる
肥沃な大地が広がっている。

英国軍の記録によると、
ナイルデルタにあった潟(ラグーン)の水が
「風によって一時的に消えた」「地元の人が泥の上を歩き回っている」
となっている。

そこで研究者たちは、
その付近の地形や気候をコンピュータ解析した。
その結果、かつてタニスと呼ばれていた地域では、
「海が割れる」という現象が起こることを突き止めた。

この地域に風速28メートル以上の強風が吹くと
海水は西へと押し流され、
4時間ほどにわたってあたりに浅瀬が出現することがわかったのだ。

4時間もあれば、その地を徒歩で渡っていくことは可能である。

モーゼの一行が通りかかった際に強風が吹いたとすると、
聖書の記述が真実味をおびてくる。
これにより、モーゼが海を割ったのは、単なる架空の話ではなく、
現実に起こった可能性もあるということが判明した

日本でも
以前、韓国及び日本でも海が割れる話をしました
[昭和歌謡]142 珍島物語。海が割れるのよ~

こちらは風ではなく、単純に引き潮
韓国と日本で現実にあるわけだから
西洋でも、単純に引き潮で海が割れる場所があってもおかしくない

新田義貞の稲村ヶ崎の龍神伝説もあるしね

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[足利将軍]7 義勝。影の薄い将軍

足利将軍シリーズ
印象がとても薄い将軍です

[4代目から]モカの釜ヒタヒタね澄んで晴れてるひでー秋、の2つ目の「カ」です

義勝(よしかつ)
強烈な印象だった義教(よしのり)が、家臣に殺される大事件
次の将軍は嫡男千也茶丸(義勝)と決まったものの当時8歳
何かができる訳ありません

管領の細川持之が実際には取り仕切ります

若くして将軍になるということはそれほど珍しい事ではない
一時的に誰かが実質的に取り仕切っていたとしても
それなりの年齢になると自分の色を出すようになってくるもの

ところが義勝はそうならなかった

義勝の次の将軍は義政、
義勝の弟で、征夷大将軍になったのが文安6(1449)年なので
年表上、あたかも、7年ほど義勝の時代があるように見えるのだけれど
実はそうではない

義勝は翌年9歳で無理矢理元服
ここから将軍にになるわけだけど、その僅か8ヵ月後の10歳にしてこの世を去る

義政は弟なわけだから10歳より若い8歳
14歳で元服するまでは征夷大将軍はお預けで
その間は将軍は空席だった

義勝が何をしたか、どんな人物だったのか
ほとんど記録が残っていない
影が薄いのも仕方ありません

生まれた時はかなり詳しく記録が残っています

裏松(日野)重子が待望の男の子を生んだ
お父さんの義教は大喜び
出産後すぐに産所に赴き、自らへその緒を切り落としている

二日後また出向いていって、お湯初めの儀式
自らひしゃくでお湯をかけてあげている

こののち10人ほど男の子は生まれているが
実際に足を運んだのはこの時だけ

影響
義教暗殺(嘉吉の乱)後、幼少の将軍二人が続いて、
実質将軍不在になるこの時期の影響を見ていきましょう

義教は、恐怖政治で、どんどん気に入らない大名を粛清し
有力大名の家督を入れ換えさせていたので
義教が死んだ事で反義教派が復活していきます
とはいえ、各家では、入れ換えられた家督相続者もいるわけで
あっちでもこっちでも家督争いが激化します

実質将軍不在なので、将軍が手を打つことはできません
相対的に大名は力を持ちつつの内部分裂

畠山氏がその典型

義教を暗殺した播磨の赤松氏を征伐したのは隣の山名宗全
一度力を削がれていましたが、復活します

このような状況が
このあとの応仁の乱に繋がっていくのです。

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