[神社] ヒトコトヌシノカミ

ヒトコトヌシノカミ(一言主神)

雄略天皇が大和の葛城山(かつらぎさん)へ登山した時の事です

自分とそっくりな格好をした一行に出会いました

こらこら、人間の分際でなんて格好をしているんだ

いえいえ、私どもは葛城山の神、ヒトコトヌシノカミにございます

あらまあ、失礼しました。神様でしたか

雄略天皇は失礼を詫び
弓矢や衣服を献上しました

いやいや、そんな

意気投合し、一緒に鹿狩を楽しみ
来目川まで帰りの道案内もした

言霊(ことだま)
古事記でヒトコトヌシノカミは
悪事も善事も一言で言い放つ神とされている

昔から日本には言霊(ことだま)信仰というのがある
言葉には魂が宿っているので
言葉にすると、それが現実になる
ヒトコトヌシノカミは言霊信仰を象徴する神なのだろう

大和政権と、大和の豪族葛城氏の関係もかいま見える
大和政権に迫るほどの勢力を持っていたのかも知れない

ヒトコトヌシノカミは
一言の願い事なら何でも叶えてくれる神様として
葛城一言主神社を総本社に、全国に広く祀られている

さらなる秘訣
「無言詣り」という方法もある。
当日は朝から誰とも一言も話をせずに参拝することで成就力が強くなる
うちのカミさんは100%無理です

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[足利将軍]15-3 義昭。秀吉へ

[足利将軍]15 義昭。信長と二人三脚
[足利将軍]15-2 義昭。信長との決別
の続きです

足利将軍シリーズは今回で最終回となります

毛利立つ
義昭の求めに応じ、西国一の大名毛利が反織田信長で立った
すると、上杉謙信も立ち
武田勝頼、大阪本願寺も呼応した

義昭は反織田信長の旗頭になる
信長に追われて京都から紀州に移座したとき、
わずか二〇人にまでその侍臣を減らしていた。
ところが、それがたった二年半で、あれよあれよという間に復活を遂げた。
そして、今や毛利や上杉といった、当時日本を代表する有力大名たちの旗頭になったわけである。

緒戦では、織田信長を大いに苦しめる
ただ、それぞれが力を持ちすぎているがゆえに
細かいところで意思統一がはかれないとほころびが生じていく

そして、上杉謙信の死をもってその力が削がれていった

大阪本願寺が最初に織田信長に屈し
続いて、武田勝頼が敗れた

残るは毛利
そして、毛利に庇護されている義昭
毛利を討て

その指示を受けたのが、明智光秀だった

本能寺の変
歴史

一日にして変わる

明智に続いて毛利を討つべく向かっていた羽柴秀吉は、
毛利との講和を急いで実現させ、京都へ引き返す

義昭は命拾いをした

そんな義昭ら近づいて来たものがいた
柴田勝家
秀吉と主導権争いをしている、織田信長の重臣

義昭は呼び掛けに応じた

ところが、柴田勝家は
秀吉に討たれてしまった

今度こそ終わりか

ところが、また義昭に近づいて来たものがいた

羽柴秀吉である

秀吉は義昭に利用価値を見出だした

島津を降伏させよ

義昭は島津と強いパイプを持っていた
島津に秀吉への降伏を迫り、実現させた

この結果、15年ぶりに京都に戻ることができた

秀吉の臣下となり、1万石を与えられて、大名になった
余生を静かに送る

61歳にして、死の床に伏す

彼には一子・義尋がいたが、この人物は僧籍にあった。
義昭が足利旧将軍家を存続させるためには、この義尋を還俗させるか、
誰かを養嗣子にしなければならなかった。
だが、義昭がそのような手続をとった形跡はない。
それゆえ、義昭が大坂で61年におよぶ波乱の生涯を終えると、
旧将軍家は後継者なきゆえに断絶した。
時に1597年(慶長2年)8月28日のことである

翌年、豊臣秀吉もこの世を去る
その2年後には関が原の戦いが起き
さらに歴史は大きく変わっていく

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谷保天満宮に行ってきました

今日は11日にもなりますが
珍しく年明けからまだひとつも神社に行っていない

正月あけすぐに企画していたウォーキング同好会のイベント
七福神巡りも、私がインフルエンザにかかってしまったため中止

外したしめ縄を見て
カミさんが
あほ神社に行ってお焚き上げしてもらおうか

わが家では、何かというと国立市の谷保天満宮(やぼてんまんぐう)に行く
長女の高校受験の時にお願いしたら成功したのを皮切りに
娘たちの受験は全て谷保天満宮で連戦連勝

カミさんは面白がっているのか、本当にそう思っているのか
谷保天満宮の事をあほ神社と言います

しめ縄は、正月終わったら
次の年も使えるかも、取ってあって
結局3年分たまっている
言わなきゃ分からないから
3つとも持っていくことにしよう


あったあった、ここに置けば良いのね

みんなが撫でて、つるっつるの牛さん

初詣です

英語でいうとこうなります
Put some coins into the offering box.
(お賽銭箱に、コインを入れます。)
Ring the bell.
(鈴を鳴らします。)
Two bows, two claps and one bow.
(二礼二拍手一礼です。)

正月そうそうだと、長蛇の列になりますが
もう、この時期になると落ち着いたものです

合格梅茶セット

体が温まりました

帰りに、ホームセンターにより
今年も、じっくり庭の畑の土作りをすべく
牛ふんと鶏ふんを買いました

カミさんが好きな味噌ラーメンの店によって、ラーメンを食べた

まったりした、3連休の初日でした

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[旅行] 全国陶磁器巡り。六古窯その1

[旅行] 全国温泉巡り。東日本編
[旅行] 全国温泉巡り。中部西日本編
[旅行] 全国渓谷巡り。東日本編
[旅行] 全国渓谷巡り。中部近畿編
[旅行] 全国渓谷巡り。中国四国九州編
[旅行] 全国城巡り。国宝重要文化財編
[旅行] 全国城巡り。国宝重要文化財以外
[旅行] 全国洞窟巡り。
[旅行] 全国海岸巡り。西日本編
[旅行] 全国滝巡り。東日本編
[旅行] 全国滝巡り。西日本編
の続きです

全国の観光地を勉強していくとき、なかなか厳しいのが陶磁器の産地
美術的素養があまりにもないもので
億の価値のある皿と、100円ショップで売られている皿との違いが良く分からん
そもそも、陶器と磁器って何が違うん?

皆様はご存知なんでしょうが
私が分からんことは、分からない人がいるかも知れないので
そういうところから

陶器と磁器の違い
根本的な違いは材料
ここからが陶器でここからが磁器って線引きがある訳じゃないのですが
磁器の方には、ガラスの材料に近いのがより多く混じっている
焼くときの温度が磁器の方が高い
より強度が出るので、比較的薄く作れる
違いは全て「比較的」でしかないので見た目で、はいこっちって限定するのが難しいんですが
磁器の方が白っぽいイメージ
水分が染み込んでいくことがなく
軽く弾くと、ガラスに近い音がする
土鍋に近いのが陶器でガラスに近いのが磁器って事かな

焼くときの温度が磁器の方が高いということで
歴史的に言って、陶器の方が早く現れる
全国の陶器の産地の中で、かなり早い段階からの産地が六古窯(ろっこよう)と呼ばれている
瀬戸焼:愛知県瀬戸市
常滑焼:愛知県常滑市
越前焼:福井県丹生郡越前町
信楽焼:滋賀県甲賀市
丹波立杭焼:兵庫県丹波篠山市今田町立杭 
備前焼:岡山県備前市伊部

まずは六古窯を巡っていくことにしましょう

瀬戸焼
愛知県です

六古窯の中でも瀬戸焼は代表格
おそらく一番古い産地かと思われますが
それに甘んじず
常に拡大と進化を続けてきた
明確に資料に残っているのは、
鎌倉時代、中国でやきものの技術を学んだ加藤四郎左衛門景正が瀬戸で開窯
おそらく平安時代にもすでに瀬戸の地で焼き物が作られていたらしい

最初は須恵器(すえき)
その後、灰をかけて自然の釉(うわぐすり)となる事を発見
釉(うわぐすり)をかけると表面がコーティングされ、タイルのようになる
水が染み込まなくなり、独特の風合いも出る
灰釉陶器(かいゆうとうき)と呼ばれます

鎌倉時代には、無釉の山茶碗というものが大量に作られ、全国に流通

さらにその後、自然の釉(うわぐすり)ではなく、それ専門の釉(うわぐすり)が開発され
施釉陶器(せゆうとうき)が生産されるようになります
これにより、焼き物全体を釉で覆うことが可能になる

さらにさらに、その後、磁器まで作れるようになり
陶磁器の代名詞「瀬戸物」が定着していきます

常滑焼
これも愛知県です

常滑焼もかなり古い
特徴はこの地方で算出される材料としての粘土
鉄分を多く含むので、焼上がりが赤っぽくなり、頑丈になる
釉は使わない
多くの産地がろくろを使うが、常滑焼は人の方が周りを回る

甕(かめ)や壺などの大型の製品が多い
明治時代になると、鉄道や下水の普及により、木型を用いた土管がつくられるようになった。
また、江戸後期より中国の急須を模しつくられた朱泥の茶器は、現在も代表的な生産品のひとつ

常滑焼は自分のところだけではなく、その技術を全国に広めていった
他の六古窯は常滑焼の技術を取り入れたものが多い

残りの六古窯は次回といたしましょう

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