ジョサイアコンドルのひととなり

外国人から見た日本シリーズ
一旦、各国の公使から離れます。

ジョサイアコンドル

東京をウォーキングしていて
名のある西洋建築に出会ったとき
必ず出てくるのが、ジョサイアコンドル
ジョサイアコンドルないしは、その弟子が作ったものですと

巨匠中の巨匠
どんなすごいひとなんだろう
絶対髭生やしているなあ
パイプくわえているんじゃないかな
どんどんイメージが広がっておりました。

ジョサイアコンドルは、いわゆる「お雇い外国人」
文明開花において、外国からお金を出して来てもらい
技術提供と指導をしてもらう

明治10(1877)年
若いイギリス人が日本に到着
まだ24歳
とてもビックリしたんだけど
さぞや実績十分の
以前ヤクルトに来た、赤鬼ボブホーナーみたいな人を連れてきたんだとばかり思っていましたが
そもそも、全く建てたことない
英国建築界の登竜門、ソーン賞を受賞したばかりで
将来は約束されたようなもんだったけど
実績としてはやっぱり無かった。

ということなんで
今に換算して月給300万くらいは
破格中の破格

まあまあこちらへ
と、上げ膳据え膳

そして、いきなり3年後
日本の国益を左右する、あの鹿鳴館の設計をしちゃう訳です。

当然です。
西洋建築のいろはが分かっている人間は彼一人
払っている金に見合った仕事をしてもらう必要があります。

結果として、人選は全く間違っていなかった。
そこから「日本の洋館」がスタートするのですから。

実は、ジョサイアコンドルは、イギリスで不満を持っていた
ロンドンの万国博覧会で日本の美術を見て以来
建築にオリエンタルなテイストを盛り込みたかった
でも、当時のイギリスでは全くそれは許されないこと。

ただ、日本の美術が西洋より優れているという片寄った異国趣味を持っていた訳ではない
程よいバランス感覚を持っていた

鹿鳴館の設計で、
よっしゃ、いよいよ私の表現したいものが出来るぞ

でも、要求されているのは、「洋館らしい洋館」

やり直しっ

結果出来上がったのがこれ

正直、私は洋館らしい洋館がどんなものか分かっていません
でも、間違いなく、ここをスタートとして
絶賛される数々の建築を完成させるという事は
それが、日本人にとって、しっくりくる洋館だったからじゃないでしょうか

残念ながら、外国人には受けが悪かったようで
「奇妙な建築」だと言われてしまったようです。

良いじゃないですか
言いたい奴には言わしとけ

三菱一号館

旧岩崎邸

旧古河邸

ニコライ堂

あっという間に、誰にも文句を言わせない実績を作りあげちゃったあとは
俺の作るものこそが日本の建築なり
と威張って良いですね

特筆すべきはその弟子達です

■辰野金吾

日本銀行

東京駅

■片山東熊

迎賓館

ただ威張っているだけじゃこれだけの弟子は育たないでしょう。
おそらく、弟子の気持ちが分かる人だったんじゃないかな

というのも
今回本を読んでとてもビックリしたエピソード

河鍋暁斎
当時の日本画で、押しも押されもせぬ最高峰が河鍋暁斎(かわなべきょうさい)
なんとコンドルさん
河鍋暁斎に弟子入りしちゃうんです。

建築だけやってれば、みんなひれ伏すのに
敢えて「弟子」になろうという訳です。

できないと思うなあ、そんなこと
一気にコンドルさんの事が大好きになりました。

絵もそうだけど
考え方を学ぶ
写生をさせてもらう自然の対象に、敬愛の心を持って接する

めきめき腕をあげ
ついには「暁英」という号まで頂いちゃいます。

これ何だか分かります?

暁斎絵日記という筆休めに書いた絵
真ん中にいるのは、ジョサイアコンドル
最初の頃、正座が出来ず、腹這いになって絵を書いています。

河鍋暁斎が胃ガンでこの世を去ったとき
最後に手を握っていたのは、ジョサイアコンドルだったそうです。

さらに

日本画にあきたらず
日本舞踊まで習っちゃいます。

今度の先生は誰でしょう。

前波くめ、という一流のお師匠さん。
この人がまた、踊りだけでなく
人間的な魅力に溢れる人

コンドルさんは、日本女性と結婚し
生涯を日本で暮らすことになります。

その日本女性の名は?

「前波くめ」さんです。

索引はこちら
[幕末・維新の外国人]シリーズはこちら(少し下げてね)


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ジョサイアコンドルのひととなり」への1件のフィードバック

  1. ピンバック: 旧岩崎邸庭園に行ってきました | でーこんのあちこちコラム

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