人も惜し 人も恨めし あぢきなく
世を思ふゆゑに 物思ふ身は
人がいとおしく思われ、また恨めしくも思われる
この世の成り行きが思いにまかせず、情けなく思うがゆえに
あれこれと思い煩っているこの私には。
前置きが長くなりましたね
[百人一首]99 その前に、後鳥羽院について
[百人一首]99 承久の乱
[百人一首]99 承久の乱、その2
藤原定家
後鳥羽上皇は、自分で欲を出し、事を起こし、読み間違えて完敗したわけだから
何の同情の余地もないんだけど
あまりに各方面に卓越していた人なので
いらんことしなければなあ、という感が拭えない。
おそらく、その思いを生涯強く持ち続けた人が、藤原定家だったんだろう
藤原定家は、後鳥羽上皇の逆鱗に触れて出入り禁止
普通なら恨んでしかるべきなのに
どうしても嫌いになれなくて
バカな失敗の後も
通常なら、ざまあみろ、なんだろうけど
ひょっとすると、誰から見てもバカな失敗だったが故に、なおさらに
後鳥羽上皇のために、何かが出来ないもんだろうかと
天下の罪人な訳だから
もちろん何も出来ないんだけど
トライするだけしてみた。
次の天皇、後堀河天皇から命じられた「新勅撰和歌集」
これは、従来のように複数の撰者ではなく単独。
自由にしていい。
後鳥羽上皇の作を入れてみた。
悪い
他は全部OKだけど
これだけはNGね
ですよねー
あっさり引っ込める。
藤原定家、晩年となる
そこに、襖に貼る色紙として、あくまでもプライベートに依頼された百人一首
ずっと持ち続けていたひとつの思い。
ここだっ
藤原定家、人生の全てをかけて取り組む
第99首に、後鳥羽上皇のこの歌を入れるために。
あり得ますか
嫌われた相手にそこまで
百人一首を理解することは、後鳥羽上皇を理解することだと思った
それほどまでに惚れ込まれる男ってどんな男なんだろう
どうにも気になって
承久の乱にちょっとのめり込んじゃいました。
隠岐の島で
隠岐の島に流された後鳥羽上皇
意気消沈ではあるでしょうが
そこはやっぱり、後鳥羽上皇
和歌を作り続けます。
もちろん発表の場なんてないんですけどね。
さらに
昔の和歌を取り寄せる事は許されたから
いっぱい送ってもらって、自分なりの和歌集を作る
「遠島百首」「後鳥羽院御自家歌合」「時代不同歌合」
他にも色々あって
「定家家隆両卿撰歌合」
えっ、家隆は分かるとして
あんなに、ぼろのちょんに言っていた定家をここで?
そして、最晩年に完成したのが
「隠岐本新古今和歌集」
そう、あの「新古今和歌集」を自ら改訂したんです。
二割近い380首くらいを削除した。入れていた自分の歌も結構削除している
この事で、大喧嘩したんです。藤原定家と。
「おわりに」に書いてあります。
二千首というのは多すぎました。
自詠を三十首余りも入れたのは、集の価値を下げることを考慮しない振る舞いでした。
鑑賞
流された後の歌かと思いますね
違います。
承久の乱の9年前に詠まれています。
ずいぶん考えたでしょうね
数多い後鳥羽上皇の歌の中から
流された後の歌かとも思えそうな歌を持ってきたんでしょうか
あるいは
この歌が詠われた頃は大喧嘩の真っ最中ですから
「人も惜し 人も恨めし」のこの「人」は
藤原定家そのものと読んだんでしょうか
喧嘩の後のあの独特の感情
腹わたが煮えくり返っているから
ずっと興奮しているんだけど
でも、あの言い方はまずかったな
あそこまで言う必要はなかった
いや、もとはと言えばあいつが・・
頭の中を色んな感情が行ったり来たり
定家自身、激情家だから
「あぢきなく 世を思ふゆゑに 物思ふ身は」
の心の揺れが、嫌と言うほど良く分かり
ああは、言われたけど、上皇だって思い悩んだんだろうなと
でも、お互い、ごめんなさいなんて言える性格じゃなく
お互いの晩年に
百人一首の第99首にこの歌を入れたり
隠岐本新古今和歌集の「おわりに」に書き入れたり
っていう表現の仕方しかできなかったんでしょう。
この歌
定家自身の気持ちを代弁した歌なのかも知れない。