[大奥]7 家継。天英院と月光院のバトルが決着。

[大奥]6 家宣→天英院と月光院。壮絶なる女のバトル
の続きになります。

家継
6代将軍、家宣が風邪ひいたと思ったら亡くなっちゃった。
残されたのは、弱冠4歳の、家継

家宣が京都大好きだったが故に、
正妻熙子は京都派として、大奥内で隆盛を極める
完全制覇かと思う時期もあったんですが、
これで後ろ楯を失う。

一方、家継の母、側室お喜世、俄然勢いをつける

家宣死去に伴い、二人は落飾し
熙子は天英院、お喜世は月光院と名乗ります。

これで終わってなるものか
天英院は作戦を巡らせます。

間部詮房(なまべあきふさ)
側用人、間部詮房はすごく頭が良くて、バリバリ仕事が出来る
家宣に気に入られ、どんどん出世

老中は、家康が今後これでやりなさいと強く言い残した制度。
譜代大名の人しかなれず
数人いて担当分野を持つ
重要分野は合議制
家康らしい安定重視の考え方で、ある意味、バカ殿でもやっていける。

側用人は、5代将軍綱吉が開発した制度
綱吉は、館林藩から乗り込んだので、江戸城内には何ら人脈がない
老中に政治をやらせると、自分は全くお飾りになってしまう。
仕事の出来る柳沢吉保を、本来単なる身の回りの世話役でしかない「側用人」という地位につけ
全て側用人に仕事をやらせた。

家宣は、綱吉が大嫌いなので、ことごとく綱吉の政策を否定するんだけど
この側用人制度だけは踏襲
自分も、甲府藩という外から来た将軍ですから。

側用人、間部詮房に全て任せる。

面白くないのが老中たち
2代続けてないがしろにされています。

老中が、正室の京都派につき
側用人の間部詮房が江戸派につくという構図。
大奥の対立は、政治的対立にも直結します。

4歳の7代将軍、家継はもちろんお母さん派

間部詮房は家継が生まれた時から教育係
とても厳しく育てます。

家継が泣いてぐずるときは
えち様に言いつけますわよ、と言えばピタッと泣き止む。

えち、っていうのは、間部詮房が越前の守だからその略称。

でも、基本的に深い愛情をもって育てたんでしょうね
家継は不思議に、えち様が大好き

少しでも間部詮房の姿が見えなければ
えちは・・えちはどこじゃ

通常将軍は、中奥にいるんだけど
家継はお母さん、月光院のいる大奥に朝から晩まで
4歳だから自然ですね。

すぐに、えちはどこじゃが始まるから
間部詮房も自然と大奥に

家継は問題ないです。
子供は男でも大奥にいて良いし
そもそも将軍ですから、何ら問題ない。

問題は間部詮房
大問題。

月光院は超美人でまだまだ女盛り
間部詮房とこたつで、さしつさされつ
そこに入ってきた家継が
えちは将軍のようじゃ
これじゃ、噂がたつのは当然。

天英院の考えた作戦はここです。

間部詮房のお陰でと言えば良いのか
大奥に、男性が出入りするのが、それほど不思議ではなくなってきた。
風紀の乱れです。

天英院は敢えて絶対に注意させない。
一発逆転を狙ってますから。

江島生島事件
そして、正徳4年(1714)1月12日。
世にも名高い、あの事件の日がやってまいります。

江島は、月光院付きの最高実力者、お年寄り
月光院の代理で、家宣の墓参り。
月光院の代理ともなれば大行列。

帰りに、芝居見物をした。
ルール的にはアウトなのだが、たまの外出
大奥の女中たちには、待ちに待った息抜き
監視役には十分な口止め料を握らせています。

受け入れる山村座も慣れたもの
二階の桟敷席五十間を絵島一行のために用意し、
弁当も百人分あつらえていた

主役は当然当時江戸で一番人気の色男、生島新五郎

そのままは帰らせません
こちらへどうぞ

ついつい長居になり
江戸城についた時には、門限の時間を過ぎていた。

門番と押し問答

いくら江島様でも、私も役割でございます。
お通しするわけには参りません。

聞きつけた月光院が手を回し通してもらい
事なきを得たかに思われました。

天英院様。お耳に入れたい話がございます。

三ヶ月後天英院に知られることになります。

来たっ。待ちに待ったこの時が。

江戸派一斉摘発
調べる権限は、老中側にあります。

なんと1500人にも及ぶ、江戸時代最大の疑獄事件に発展します。

生島新五郎は石抱きの拷問にあい、江島との情事という、用意された筋書き通りに自白

そんな短時間で何が出来る訳でもないと思いますが
話には尾ひれがつくもので
生島を長持ちに入れて、大奥に運び入れたとか
そんなむちゃくちゃな。
仮に首尾よく侵入できたとしても、どこで何が出来ると言うのか。

ただ、その噂のために、出入口で長持ちの中身チェックが制度化される。

すると、長持ちに入った大奥女中が見つかった。
残念だったね。

一方の江島、三日三晩一睡もさせずに尋問する「現(うつつ)責め」にかけられるが
とうとう最後まで否認し続けた。

尋問の本当の目的は、本丸
月光院と間部詮房の関係

もちろんこちらも口を割らない。

この江島、無いものをあるとは、いかようにされとても言えませぬ。

にもかかわらず、出された判決は死罪

いくらなんでもと、月光院が詫びを入れて、死罪は免れた。
信州高遠藩へと遠流

こんな厳重に逃げられないようにし

朝夕の一汁二菜のみ。本も読めず、書くための筆も与えられない。
暗唱してあった法華経を毎日唱える日々

再三にわたり赦免を申し出たが、ついに一度も認められず
33歳で遠流になってから、28年間、囲み屋敷の中にいてそのまま生涯を閉じる。

索引はこちら
[大奥]シリーズはこちら(少し下げてね)

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