五百羅漢寺。五百羅漢像を一人で彫った松雲元慶という男

五百羅漢寺に圧倒される
の続きです。

松雲元慶(しょううんげんけい)
松雲元慶は慶安元年(1648)年京都に生まれます。
俗名、久兵衛です

11~2歳で仏師屋に奉公に上がります。
仏像の彫刻です。

修業を重ね腕をあげていきますが
当時の仏師の世界のあり方に疑問を持つようになります。

当時、仏師は極端に分業化がなされ
細かい工程の専門職によって分担して受け持たれていました。

チャップリンのモダンタイムスでベルトコンベアの前の機械のネジを締めるような
そんな感じでしょうか

悩み、反発を感じるのですが
かといって、その世界から抜け出すこともできず、悶々としているとき
鉄眼道光に出会います。

そこで見たのは、自分のやるべきことにひたすらに取り組む姿
魂が揺さぶられました。
仏師は、仏と向き合ってはいますが、仏教信者という訳ではありません。
ただ、仕事として、仏像を彫っている

答えを聞いた訳ではない
でも、生きざまを見た。
そばにいたいと思った。
すぐさま出家し、仏の道に入った
松雲元慶の誕生です。

仏の道の修業にはげみ
傍らで、薬師如来像と十二神将像を彫った。

自分で彫った仏像に何かを教えられたのかも知れません。

恥ずかしさで身が震えた、と言います。

自分はなんて思い上がっていたんだろう。

これってすごいと思いませんか

仏の道に入り、その上で、分業ではない仏像を作る
出来た仏像を見て
ほらやっぱりそうだ、仏像はこうあるべきだったんだ
なら話は分かります。
むしろ逆で
自分はなんて思い上がっていたんだろうと恥ずかしくなった、って。

より仏の道を極めるため、諸国行脚の旅に出ます。

そして、運命的出会い
大分県中津市の、耆闍崛山羅漢寺(ぎじゃくつせんらかんじ)で五百羅漢像と出会うのです。
一体ずつ一体ずつ拝みながら、畏敬の念が強くなっていきます。

戻った松雲は、すぐさま、鉄眼に話します。
五百羅漢像を彫りたいと思います。

分かった。
江戸に行ってこい。

松雲は、江戸で大願を成就すべくスタートを切ります。
貞享4(1687)年です。

大願成就には先立つものが必要でした。
来る日も来る日も「五百羅漢造立権化」と書かれた錦旗を持って
浅草寺の門前や市中を勧進して歩きます
ほんのわずかな施しを受けながら食うや食わず着の身着のままで数年経過
一体の羅漢像を彫る資金も集まりませんでした。

どうしようもなくなって、向島の弘福寺を訪ねました。
鉄眼の兄弟弟子、鉄牛がいます。

いきさつを伝え
寄附を乞います。

何卒、ご慈悲をたまわりとうございます。

ならぬ。
五百羅漢造立の願が叶うか叶わぬかは
施主の有無とは関わりはない
志願がまことかどうかじゃ
まことならば、誰もほおっておきはせぬ
金など自然と集まる
金の集まり具合だけ気づこうても、無益なだけじゃ

自分は今まで何をしてきたのか
何も言葉が出なかった。
その厳しい言葉が千金にも値した

奥に消えた鉄牛は、
ほどなくして戻ってきた。

真新しい衣と、金の入った包み

まあ、一体彫ってみなされ

動けなかった。
こみ上げるものを押さえられなかった。

松雲は、とりつかれたように一体の羅漢像を仕上げた。
五百羅漢造立を発願してから、実に10年の月日が流れていた。

鉄牛に見せに行った

驚いた。
このような表情の仏像を見たことがない
枯れた感じもあり、それでいて親しみが持てる

分かります。
同じものを今日見ましたから。
330年の時を経て
その時、鉄牛が見たものと同じものを間近に見れた。
だから、ウォーキングはやめられないんだなあ

鉄牛、言葉をグッと飲み込んだ
表情を変えず
「次の像にかかる金がいると思って、瑞聖寺の慧極からもろうておいた」
と、お金をポンと渡した。

ひたすらに彫る
それだけでなく、辻説法も続けた
得られる、布施は僅かだったが
その庶民の、羅漢像にかける気持ちを受け止めたかった。

突然、情熱が伝わった。
蔵前の裕福な隠居たち16人が金を一体ずつの金を出してくれることになった。
仕事場まで提供してくれると言う。
口伝えで、松雲の羅漢像は人々の知るところとなっていった。
彫るところを見に来る人まであらわれた。

そして、とうとう奇跡が起きる
なんと、5代将軍綱吉の母、桂昌院の耳に入る
桂昌院から、10体分の金が下賜された。

僅か10体分と言うなかれ
桂昌院のお墨付きが得られたということを意味する。
幕府に無許可で勧進(寄附を募る)活動ってしちゃいけないんです。
公認を得られたことになるので
ここから雪だるま式に、資金が集まってくることになります。

ただ彫ることだけに専念できる事になり
スピードアップします。

そして、いよいよ正式に、
本所五の橋の南の土地が与えられます。

ここにお寺を作りなさい。

五百羅漢寺創建です。
自分に与えられたものなのに、自分は住持にならなかった。
亡き師、鉄眼を開山と位置づけた。

開山大法要が行われた跡も彫り続け
元禄10(1697)年、五百羅漢像は完成
さらに、地蔵、観音等を彫り続け
その数700体を超えると言われています。

鉄眼の門を叩いてから、40年
そのほとんどを仏像造立に捧げ
五百羅漢寺を創建するという大事業もなし
宝永7(1710)年、その生涯を終えました。

その後
五百羅漢寺の面白いところは、松雲の激動の生涯だけで話が終わらない事です。
その後、びっくりするような人がこの五百羅漢寺の住持(住職)をつとめることになります。

それが誰なのか
この続きはまた明日ね

[お出掛け]シリーズはこちら(少し下げてね)

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