五百羅漢寺。超美人で江戸っ子チャキチャキ、お鯉のその後

五百羅漢寺に圧倒される
五百羅漢寺。五百羅漢像を一人で彫った松雲元慶という男
の続きです。

いやあ、ひとつのお寺でまさかブログ3回分にまで渡るとは思ってもおりませんでした。

五百羅漢寺の創建にまつわる二人の男の壮絶なる生きざま
なんてドラマチックなお寺なんだろう。

そう思いつつ、「らかんさんのことば」を読み進めておりました。

えっ、ちょっと待って
どういうこと?

お鯉
衝撃が走りました。
私の中で何ともタイムリーなその名前。

お鯉

明治シリーズをやっていますね。
歴代首相シリーズも兼ねています。

首相としては、大隈重信まで行きましたので
次は桂太郎、その次は西園寺公望
ということで、その二人について書いた
「池上彰と学ぶ、日本の首相。桂太郎、西園寺公望」というのを購入し読んでおりました。

そのシリーズは、各首相の「ファーストレディ秘話」というコーナーがあります。
各首相の奥さんに関するエピソードなんですが
桂太郎は、なぜかお妾(めかけ)さんの、お鯉

元、新橋の芸妓で超美人。

性格がまた竹を割ったような性格で
チャキチャキの江戸っ子
芸妓時代から、ものすごい人気で、絵はがきが出るほど

桂太郎のお妾さんとなり、政治にも多大なる影響を及ぼす。

そこまでは、本を読んだばかりなので知っていたわけです。

「らかんさんのことば」を読むと
安藤妙照(お鯉)が、荒れ果てていた五百羅漢寺の住持(住職)となり立て直す。

はい
何かの間違いでは?

読み進めていくと、間違いではありませんでした。
まさしく、そのお鯉。

頭の中がゴッチャゴチャ
落ち着いて、落ち着いて
話を整理致しましょう。

お鯉の生涯
本名、安藤照(てる)
14歳で新橋の近江屋で芸妓となり、ダントツ一番人気
絵はがきは何度も増刷

20歳の時、歌舞伎役者と結婚するも4年で離婚
花柳界に復帰します。

伊藤博文、井上馨、北里柴三郎、尾崎紅葉とかがお馴染みさん
伊藤博文は有名ですね。

日露戦争が始まると、当時の首相、桂太郎は心労で大変
桂太郎の親分格の山県有朋や井上馨が、元気付けようと引き合わせます。

お妾さんにという話になったのは、桂太郎の奥さんが病気により
群馬の伊香保温泉で療養していたから

女をおもちゃと思うてもろたら嫌です。
芸者とて人間。
生涯の事を考えてもらうんやないとゴメンです。

お鯉24歳、桂57歳。
明治37(1904)年です。

首相官邸に和室が作られ、身の回りの世話。お鯉部屋と呼ばれます。

いろんな交渉ごとの根回し等、かなり実質的に政治に関わっていきます。

日露戦争の後始末に不満を持った過激派からお鯉の家も焼き打ちにあったりし
危険だと思った桂が、手切れ金一万を渡したが、突き返しています。

でも、療養後に本宅に戻ってきた正妻可那にはお目通りを許してもらえず
桂の臨終にも立ち会えず、葬儀にも参列できませんでした。

ただ、遺言で、財産分与が証明され
生涯の事を考えるという約束は果たされました。
大正2(1913)年です。

「らかんさんのことば」からの引用です。

世間からは何不自由ないように言われた時代に
人間から金や身分を取り去ったらどうなるだろう
女が容色(きりょう)を失ったらどうなるだろうと考えた時、
それはそれはさみしいものでした。
そうなったときの拠り所を探しておかねば一日も安心して生きられませんでした。
それで、仏様のお弟子になったのです。

結局、財産分与という約束は、お鯉には意味のないものだった。

名を妙照(みょうしょう)と改め、一切を仏に任せた生活に入ります。

20年以上の時が流れました。
昭和12(1937)年
妙照(お鯉)が托鉢の途中、五百羅漢寺に立ち寄ります。

時を戻しましょう。
五百羅漢寺がどうなっていたか。

江戸時代には、家光直々に建立を指示した寺として続いておりましたが
明治維新になり、一転、廃仏毀釈により存立の危機に見舞われます
それでもなんとか持ちこたえ
明治41(1908)年に目黒に移転して来ます。
ところがその直後
大暴風雨により、本堂が大破してしまいます。

そして、追い打ちをかけるように、
大正12年の関東大震災で大破
それでも火災だけは免れたんでしょう。
305体の羅漢像は残った。

昭和の始めには、住持(住職)もいない荒れ寺になってしまっていました。

そんな荒れ寺、五百羅漢寺に、妙照がやって来た。
荒れ寺の中に残る羅漢像と対峙したのでしょう。

鉄眼の生きざまに突き動かされた松雲
その松雲の生きざまがそのまま乗り移った、羅漢像たち
今度は、妙照を突き動かす事になります。

妙照は五百羅漢寺の本堂で得度式を行い
五百羅漢寺の住職となります。

再興せねば
この羅漢像を守らねば

でもそれは、妙照にとって
羅漢に囲まれた、幸せな
一番、真実を感じられる
人生のひとときだったのかも知れない。

五百羅漢寺再興のために、托鉢行脚に精進します。
分与された財産を使えばどうってことないだろうにね。

日中戦争が苛烈になってくると
妙照は義理の妹の尼僧、慈雲とともに、中国大陸に渡ります。
国をあげての大戦の最中に
戦争で命をなくした人たちの霊を、敵味方なく慰めるため
昭和15(1940)年
戦塵の中、一切平等の功徳(くどく)をすすめます。

その後、太平洋戦争に突入
昭和20(1945)年敗戦

五百羅漢寺再興も思うようには進みません。
その3年後、病に倒れた妙照は
その生涯を閉じます。

慈雲
道半ばの思いは、義理の妹の尼僧、慈雲が引き継ぎ
五百羅漢寺再興に奮闘します。

さくら隊原爆殉難碑というのが立っています。
慈雲が立てたものです。

広島に巡業中だった、新劇の名優、丸山定夫の主宰する移動演劇隊「さくら隊」が被爆し
悲惨な最期を遂げました。
丸山定夫を含む9人の死を哀悼しています。

[おでかけ]シリーズはこちら(少し下げてね)

五百羅漢寺。超美人で江戸っ子チャキチャキ、お鯉のその後」への1件のフィードバック

  1. ピンバック: [明治]6 桂太郎。在位期間破られちゃった。 | でーこんのあちこちコラム

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です