小金井散策、の続き。そんな次郎の物語

小金井散策
の続きです。

浴恩館
浴恩館公園という公園
昔、浴恩館という建物があり、そこで青年教育が行われていた。
その館長、下村湖人。次郎物語の作者

なぜ浴恩館という名前かというと、
その建物が昭和天皇の即位の時の大嘗祭(だいじょうさい)の建物を譲り受け
京都から移築したから
天皇陛下から賜ると「恩」という字が付きます。

公園

空林荘跡

浴恩館の講師が住んでいた場所
平成25年に焼失しちゃったらしい。
平成25年ってちょっと前ですよね。惜しかったなあ。

浴恩館跡(今は文化財センター)

中に入ろうとすると、中から女子校生かなって人が、スタッフさんに、「写真を写したいんですけど」って言っていた。
住所氏名を書けば写真を写しても良いみたい

私もお願いしますっ

小金井市の遺跡や玉川上水沿いの桜、玉川上水の実測図


川崎平右衛門さんの新田開発


ひばりの鳥かご
ひばりは縦に飛ばないと鳴かないらしく、縦長
でも、上に頭ぶつけて脳震盪を起こさないよう、上に網が張ってあります。

圧巻は、太平洋戦争で戦闘機の下にくっつけていた落下タンク

少しでも軽くするため、機体の下に燃料タンクを付けて、その燃料を先に使う。
使い終えたら切り離して落とす。
軽くするために、竹製の枠に紙を貼ってある。
改めてギリギリで戦ってたんだなあと思う。

さあ、いよいよ浴恩館の話です。

「青年教育」とだけ聞くと胡散臭いような怖いような気がしますが
要は青年団
昔は何かっちゅうと青年団でしたよね
カミさんの田舎みたいに過疎地になると、若いのがいないので、じいちゃんばかりが青年団だったり。

外苑前に青年団の本部があって
田澤義鋪(たざわよしはる)さんが、青年教育に燃えて頑張っていた。
その本部は、短期的に青年を集めては講義をしたりとかだったんだけど
もっと長い期間、共同生活をしながらじっくりと取り組みたい

浴恩館を分室として作り
無二の親友に館長を頼んだ
それが、次郎物語で有名な下村湖人

二人の基本方針は、ぴったり一緒
自主創造・友愛

材料はいっぱい提供するけれども
こうしなさい、は一切なし
若い人間同士が集まり、とことん話し合うなかで
お互いの友愛が育まれ、何かが生まれるはず

下村湖人も若者から多くを得ていたのかも知れない。

次郎物語って自伝小説

次郎は実の親から疎まれ(少なくとも本人はそう思っていた)里子に出される
里親にとても可愛がられるんだけど
実家の方に戻される。

おばあちゃんからいじめを受けつらい少年生活を送る

母親とのわだかまりも長く消えなかったけど
母親が病気になったときに献身的に世話をすることで、気持ちが分かるようになる。
結局は亡くなってしまうのだけれど
最後の最後に本当の親の気持ちを理解出来た事で
その後の彼自身の大きな成長の足掛かりになる

その自分の経験がそのまま次郎物語になり
こうあるべしでなく、
自分で悩みながら、考えて、成長していく。

とても長く第五部まであるんだけど
第五部は浴恩館がそのままモデルになっている。

残念ながら、時代が良くなかった。
昭和5年に浴恩館設立
次第に戦争へ全体主義へと突き進んでいくなかで
自主創造・友愛の精神は、強く非難され
下村たちも、「自分では何物をも与えない教育」と言われる。
それが良いんですけどね。
とうとう、昭和12年に閉鎖に追い込まれます。

帰りにスタッフの人に聞きました。

ここに浴恩館があったのですか

はい、看板はその当時のものです。
建物は随分改修されていますが、
いかにも古いって木材は、昭和天皇即位の時の木材のはずです。

えっ?大嘗祭の時の建物の木材という事ですか?

どれとどれがその時のものかまでは調べられていないんですけどね。

急にテンションMaxになってしまいました。

令和の大嘗宮には行って来ましたので
大嘗宮に行ってきました
特別の思い入れがあります。
大嘗祭のためだけの建物なんてとても勿体ないと思っていました。
そのあと何かに使えば良いのにって

昭和天皇の即位の時は
その後建物はこうやって有効利用されていたんですね。
自分の事のように嬉しくなってしまいました。

木材どれだろう
ここかな こっちかな



[お出掛け]シリーズはこちら(少し下げてね)

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