[歳時記]6/12 鹿鳴館で初のバザー

6/12
明治17(1884)年、鹿鳴館でバザーが行われた。

鹿鳴館と言えば井上馨
渋沢栄一が最も信頼した上司です。

不平等条約改正のため
日本だって西欧文化でおもてなしできるんですよ
と、意気込んだ。

歴史の教科書では
西欧化のアピールのため開設
でも不人気で4年後に閉鎖、とだけ書かれるから
外国人にバカにされたお笑いぐさの象徴のごとくイメージされる

ちょっと待ってくれ、
このお陰で日本の女性史に大きな進歩があったことを分かって欲しい

動かしたのは、大山巌の奥さんの大山捨松(すてまつ)
こっちも読んでね
鹿鳴館のヒロイン、大山捨松
岩倉具視使節団とともに11歳の少女から10年間もアメリカ留学
日本語もおぼつかなくなるし、考え方もアメリカナイズされる

帰ってくると、こてこての男尊女卑国家日本
女性に求められるのは、子供を産むこと。そして、どこまでも内助の功
せっかく身に付けた能力を活かせずにいた。

運命的な出会いがあり
西郷隆盛のいとこ、大山巌と結婚。

それでも、鹿鳴館が出来なければ、やはり、大山巌夫人として
内助の功を語られるだけの人生だったろう。

社交ダンス?それ何ですのん
井上馨の思いを実践出来る人がいなかった。
唯一、大山捨松を除いては。

大山捨松は、政府の首脳陣の婦人たちを集めて猛特訓
少しずつ形になってきた。

すると、夫人たちに確信が芽生える
私達は役に立っている。

もっともっと役に立ちたい。日本のために

資金作り
有志共立東京病院(後の東京慈恵会医科大学附属病院)を見学した捨松
アメリカでは普通にいるのに、そこにいなかった事に驚く。
看護婦の存在。

高木院長にアメリカで経験してきたことを熱っぽく語る

良いですね、とても良いですね

じゃあ、早速

すみません。捨松さんだから、正直に言います。
看護婦という仕組みを作るためのお金は全くないのです。

帰って、夫人たちと世間話

へえ、看護婦っていうのね。

でもお金が無いんですって

すっかりポジティブになっちゃっている夫人たち

何とかしましょうよ。
ねえ、アメリカではそんなときどうするの?

そうねえ
あっ、そうだ。バザーっていう手があるわ。
不用品とか、贈答品とか、手作りしたものとかを売る催し

商売ね
私たち商人になるわけね。面白そう、やりましょやりましょ

どこでやろうかしら

(みんな同時に声を合わせて)鹿鳴館!

バザー

明治17年6月12日から3日間

会場となった2階の2室に飾り付けられた陳列棚は13。
緑葉で装飾し、日章旗を交叉し、1棚に30~40種の諸品を載せた。

値段を記した紅白の札を付け、出品総数は3000有余。

棚ごとに受持ちの係が配置された。
第1番松方夫人ほか、第2番西郷夫人ほか、第3番大山夫人ほか、と続き
第13番長岡夫人ほかまで。
ほかに茶店担当の第14、第15番が置かれた。

出品物は、手袋、靴足袋、巾着、人形、扇子、手巾、襟巻など多種

「艶麗なる造花、精巧なる押絵...かつその値も意外に廉なるがごとし。各棚列品の羅綾錦繍五彩相映写して、眩目するの外なし。」。

陳列室のほかに書画展観席があり、
看客の休憩所には階下の食堂が当てられ、喫煙、茶菓の店が設けられた。

新聞でも広告を出して大々的に宣伝。
首脳陣の夫人たちが手渡しで販売とあって大反響

ある紳士に「これはいくらかね?」と聞かれ「4円です」
「ではこれで」とこの年発行されたばかりの日本銀行券5円札を
渡された捨松は、すかさず
「慈善なのでお釣りは出ませんよ」

翌明治18年4月には第2回の慈善会が開かれ、
またその後に開かれた同年11月の慈善会には皇太后、皇后両陛下の行啓があり、
会場ご巡覧と出品物のお買上げがあった。

3日間の入場者は1万2千人にも上り予想を大幅に上回る、
鹿鳴館がもう一つ建つぐらいの莫大な収益をあげ、
その全額(当時の金額で8000円)を有志共立東京病院へ寄付

高木院長は大感激

この資金をもとに、2年後には日本初の看護婦学校
有志共立病院看護婦教育所が設立されました。

女性が初めて社会に進出する道筋が出来たわけです。

[暦]シリーズはこちら(少し下げてね)

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