[足利将軍]10-2 義稙。第二次政権

[足利将軍]10 義稙。明応の政変
[足利将軍]11 義澄。二人の将軍
の続きです

義稙(よしたね)第二期

室町時代の足利将軍は、10代義稙(よしたね)11代義澄(よしずみ)ということになっていますが
南北朝時代の天皇のごとく
義澄の時も、義稙は地方を転々としながら京都の義澄にプレッシャーをかけつづけていました
そして、とうとう義稙が政権を奪い返す時がやって来ました

義澄は京都を捨てて逃げ出し、大津へ
義稙は正式に征夷大将軍を朝廷に任命してもらえます

本当は10代義稙(よしたね)11代義澄(よしずみ)12代義稙(よしたね)
ややこしいので一般的には12代義稙(よしたね)とは表現しませんが

逃げ出したとはいえ、今まで義澄を支えてきた義澄派の大名たちは
やすやすと諦める訳にはいきません
虎視眈々と再度政権を奪取する機会をうかがっています

義稙第二次政権において、義稙を支えていたのは主に4大名
細川高国、大内義興、畠山尚順(ひさのぶ)、畠山義元

義澄派は細川澄元が中心
細川澄元は、ちょこちょこ抵抗を試みます

義稙は
ええいややこしい
細川高国よ、細川澄元をやっつけてしまいなさい

細川高国としては4大名の中で主導権を取りたいという思惑もあり
単独で2万の大兵を率いて出陣

ところが、高国軍、澄元軍に大敗してしまいます

勢い付く、細川澄元
義澄派の赤松氏が連携し、京都を挟み撃ち

義稙派の4大名、一旦京都を捨てて逃げ出します

あららまたまた政権交代か
義澄の入京を待つのみ

ところがそうならないんです

なんとこのタイミングで肝心の義澄が急死してしまったのです
まだ32歳

4大名たち
おっしゃあ、戻れぇ

京都北側の船岡山で激突
激闘の末、義稙派が勝利

ライバルがいなくなり、義稙安心

ところがその一年半後、義稙が不思議な行動に出る

京都を出奔

えっ、そりゃまたなんで
4大名は大慌てで緊急会議

「義稙様には決して逆らいません」という起請文を作成して、義稙の元に届けた

まあ、そういうなら

義稙帰京
4大名総勢3万人もの行列をなして出迎えた

作戦成功
これで磐石な体勢
第二次政権は長期政権になりそう

例えば中風の治療のため、20日間も京都をあけ、有馬温泉で療養
安定しているからなせるわざ

ところが、ほころびが出だす
4大名のひとり大内義興が、10年もの長期京都滞在に耐えられず、地元の周防(山口県)に帰ってしまった

続いて、畠山義元
地元の能登の政情不安が起き、
私も帰りますね

畠山尚順は息子の稙長と対立し、家中が分裂状態。それどころじゃない状態

4大名だったのに、細川高国だけになった

弱体化は明らか

となると、これをチャンスと動き出す者
もと義澄派の細川澄元
一旦コテンパンで、四国で、なりを潜めていたんですがね
また、赤松氏と連携

歴史は繰り返す
細川高国よ、細川澄元をやっつけてしまいなさい

これまた歴史は繰り返す
またまた各地で高国、澄元軍に敗北

一旦京都に退却
義稙に
助けてぇヘルプミー

ここで、義稙、戦略的に大きなミスをおかします

やだね
澄元側に付こうっと

ええっ、ウソウソ

高国、失意のうちに六角氏を頼り、近江に下る

まあ、義稙澄元の強力なラインが築かれるなら
それはそれでも良かったのかも知れない

澄元の重臣、三好之長が京都に入り義稙に忠誠を誓う
ところが肝心の澄元がいつまでたっても京都にやってこない
実はこの時、澄元重病におかされていた
そのまま死去してしまう

まさかすぐ死んじゃうんなら、寝返ったりしなかったのに

それを言ってよ
高国、近江から引き返す
義稙と高国、一旦和解

ただ、裏切られた恨みが消える事はない
和解は時間稼ぎのカモフラージュ

時間稼ぎのうちに行っていたのは人探し
足利の血を引く、次なる将軍
そして見つけてきたのが、義晴だった

義稙は畠山尚順に征伐を命ずるも、味方が集まらない
しぶとく抵抗を続けるも、力尽き
阿波で58年の波瀾の人生を閉じた

長かった
負けても負けてもしぶとく立ち上がり
ついには政権再奪取
最後の痛恨の判断ミスさえ起こさなければ

[歴史]シリーズはこちら(少し下げてね)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です