[徳川名参謀]15 慶喜→島津久光

徳川名参謀シリーズ。いよいよ最後の15代になります。

あれっ、名参謀じゃないよね
むしろ敵。
痛いとこ突きますね。

最後の慶喜の時代に一番影響を与えた人、くらいに、
フワッと捉えていただけますでしょうか。

そうすると

ほら、間違いなく、島津久光。

島津久光
島津久光って、薩摩藩主ってついつい思っちゃうけど
よくよく考えると、藩主じゃない。

藩主の後継争い、いわゆる「お由羅騒動」に負けた方
負けたあとはおとなしくしている筈だったのに、あら不思議。

勝った方の斉彬(なりあきら)が、数年後、死んじゃった
遺言で、久光の子、忠義が次の藩主になった
忠義はまだ幼かったので、後見役に久光、という次第。
忠義も偉かった。
後見役というだけでは、実の父が自分の部下
それちょっときまづいし、ということで
上通り、という役職を新設。
これで藩主と同等ね

上洛
元々、野心家で出たがり
そんな風にしていただけるなんて、ありがとう。

そして、部下からも。
大久保利通がおだてながら、色んな知識を身に付けさせて
その気にさせていく。

ところで、西郷隆盛の方は、久光とはどうにもそりが合わなかった。

元々、先代の斉彬は超切れ者で
やりたいことがあった。
率兵上洛。
兵を引き連れて京都へ行くということはどういうことか。
武力をちらつかせて、主張を通そうという、大それた行為。

薩摩藩は、石高こそ大きいが、外様です。
異例中の異例というか、前代未聞
死んじゃったから実現できなかったが
久光も密かにその計画を聞いていた。

死に際に、久光を呼び
この計画はあと引き継いでくれ・・・??
ということにしとこう。

久光は色んな条件や環境が整ってきて
いよいよ、その時がやって来た
ここは、遺言があったということにすれば、何かとやりやすい。

寺田屋事件
そんなすごいことをやるとなると
藩内が盛り上がっちゃいます。
攘夷派の、薩摩藩のメンバーが過激に動き出した。
朝廷のなまっちょろい面々を殺そうと計画。
これには、元々攘夷派の朝廷も、おお恐っ

久光、せっかく兵を連れてきたんだから、それで何とかして。
はいよ

説得するも言う事聞かず、決裂。
仕方なく、実力行使。
京都寺田屋で鎮圧

この事で、朝廷から絶大なる信頼を得ることになる。
単純な攘夷派ではないという意味を込めて
公武合体派という表現を使うようになっていきます。

例の和宮ですね
お兄様ぁ

もう止まらない。
よし、このままの勢いで、江戸まで行っちゃえ。

江戸でねじ伏せたのが
慶喜のかつぎだし。
家茂の後見人として、一橋派の大将、慶喜を据える。

自分もそうだから
後見人良いよ
好きなように出来るよ
後継者争いで負けたのを帳消しに出来るよ。

ここまでならば、15代慶喜の産みの親みたいなもんで
名参謀と言えなくもないですね。

さあ、その帰り道
あんなことが起きるとはねぇ

この後、歴史がガンガン動きます。
続きは次回。

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