禅文化歴史博物館に行ってきました

(12/15の事です)

IT業界の本業で、1年近くかけて作ってきたシステムを
いよいよ本番にリリース
何かあってお客様に迷惑をかけてはいけないので
リリース作業は夜中になります

0:30に、三軒茶屋の会社に集合
それまでどうしようかな

前日の添乗は夜遅くまでで疲れたので、昼まで寝ました
せっかくの空いた時間なので、会社の近くまで行ってどこかに寄ろう
って事で、例によってGoogleMapで、行ってみたいマークのついているところを見ると、禅文化研究所というのが有った

禅文化歴史博物館
駒澤大学の中にあります

建物もかっこいいし

天井がとても素敵

駒澤大学なので、曹洞宗になります
真ん中がお釈迦様で、右が道元、左が瑩山(けいざん)

座禅の仕方としては、臨済宗が公案と呼ばれる禅の質問を座禅の中で考えるのに対し
曹洞宗は、只管打坐(しかんたざ)と言って、ただひたすらに、無心で座禅をする

七福神
2階では企画展
駒澤大学の学生さんが、七福神をテーマに展示をしているとのこと
七福神は得意中の得意
七福神について何か新しいネタが仕入れられるとありがたい。
行ってみましょう

2階に上がると、女子大生がいて
七福神で、展示をしています。よろしかったら解説もできますので。

ぜひぜひ

古い文献から、よくこれだけ集められたなと思う七福神の文書だったり、絵画だったり
どれも興味深いものだったのですが、全て撮影NGだとのことで残念

昔から、七福神巡りというのが庶民の楽しみの一つでして

そうですね。私も楽しみです。今度の正月は隅田川七福神巡りのイベントやります

えっ

ここから、怒涛の七福神談義
展示では、恵比寿尊について特に深く掘り下げていた

恵比寿さんは、唯一の日本人だけど、本当にそうなのか
恵比寿講で信仰を全国に広めていったのは、被差別部落の人たち
その人たちの恵比寿舞をありがたがって神として認めていった庶民たちの温かさ

七福神となれば、どうしても布袋さんの話をしたくなるので
布袋さんの話もしちゃいました

せっかく解説してくれているのに、こっちの方がいっぱい喋っちゃった
途中からもうひとり女子大生さんが来てくれて
いっぱい色んな話

駒澤大学の学生さんって、みんなお坊さんになるんですか?

いや、仏教学部の学生は、確かに頭を丸めている人もいますけど
私達は、歴史学科なので

おおっ、歴史ですか、いいじゃないですか
吉祥寺行きました?

吉祥寺に何かあるんですか?

駒込の方の吉祥寺です
駒澤大学の発祥の地

はいはい、旃檀林ですね、まだ行っていないんですよ

そりゃ、駒澤大学歴史学科なら、卒業までには絶対行かなきゃ
びっくりしますよ。見どころいっぱいあります

若い女の子って、異人類で、話が合うわけ無いと思っていたけど
添乗の時も、意外にしっくり行くんですよね
初老のおじさんだと、写真撮したりするときに「あーら可愛い」って言っても変な感じで受け取られない

銭湯
その後、0時30分までかなり時間があったので
八幡湯という近くの銭湯へ

とても人気でお客さんがひっきりなし
1000円払えば、サウナも入れます
サウナは6人入れるんですが
入るのに行列ができるほどの人気

銭湯って斜陽産業かと思っていましたが
どっこい、頑張っているところもあるんですね

[お出かけ]シリーズはこちら(少し下げてね)

[ことば日本史] おすみつき

「ことば日本史」江戸時代から

おすみつき
将軍や大名が臣下にくだす文書、
とくに領地や勲功を確認する文書が、「御墨付」と呼ばれました。
そうした文書には、墨で花押(書き判)が記されていたことによります。
それが転じて、権威による保証を「御墨付」というようになりました。

同じ意味合いの言葉に「太鼓判を押す」というのがあります
こちらはこの「ことば日本史」シリーズでも書きました
武田信玄の甲州金(一分金)に由来します
こちらも読んでね
[ことば日本史] 太鼓判

折り紙つき
さらに、似た意味合いのものとして、「折り紙つき」というのもあります
平安時代にはすでに、朝廷などで正式の書類を作成する際には奉書という和紙が使われていました。
初めは、全紙サイズの和紙を使っていましたが、
そのうちいろいろな事情から、その全紙を横半分に折ったものを使うようになりました。
この全紙を横半分に折ったものを 「折り紙」 と言いました。

江戸時代になって、刀剣鑑定の権威だった本阿弥 (ほんあみ) 家が、
名刀の鑑定書にこの 「折り紙」 を用いたことから、
その道の権威者に品質を保証されたものを 「折り紙付き」 と言うようになりました。

これが、刀剣類だけでなく、その他の美術 ・ 陶芸品の分野でも
そしてさらに芸事の分野にまで広がっていきました。

お墨付きは、お上的な権威で
折り紙つきは、品質が優れたものについて、その分野において保証されている、
というニュアンスかと思います

[言葉]シリーズはこちら(少し下げてね)

[名字]1 氏姓制度と賜姓

名字の歴史学、という本を読みました

以前、名字に関しては何回かに渡って書いたことがあります。
氏、姓、名字、苗字、実は全く別のもの
名字がいよいよ出てくるよ
氏と姓と名字と苗字がどう違うか、というような話です
へええ、という内容がいっぱいあったのですが
いまいちモヤモヤとした感じも残っておりました

正直、明確にキッチリ分かれている訳ではなく
時代とともに、それぞれの概念がダブりつつ
あいまいになっていくので
最終的にもモヤモヤするのですが
なぜあいまいになっていったのか、というあたりは
今回読んだ本でだいぶクリアになりました

ということで、またシリーズとして、名字に関して書いていきたいと思います

この本では
そもそも、江戸時代までは、武士ではない庶民は苗字を持っていなかったというのは間違い
持ってはいたけれども、公には名乗っていなかっただけ、という衝撃のはしがきから始まります

その辺は時代的に後になりますので
まずはずっと昔
氏(うじ)から始めましょう

氏(うじ)
大和朝廷は、氏族集団の集まりだった
氏族集団は氏(うじ)と呼ばれた
氏族の長は氏上(うじのかみ)と呼ばれ、同じ血縁の氏人(うじびと)たちを統率管理した
その下には非血縁の奴婢(ぬひ)たちが従属させられていて、
部曲(かきべ)とか部民(べみん)とか呼ばれていた

氏族の数は645年の大化改新の前で100を超え、
815年の「新撰姓氏録」では1182の氏名(うじめい)が記録されている
氏名はうじめいと読み、氏名ではなく、氏の名前。実名は含まない

大和朝廷に属する人は奴婢も含めて、いずれかの氏集団に属して氏名を名乗るから
全ての個人は氏名を持っていた

姓(かばね)
中央氏族の氏上(うじのかみ)は朝廷に出仕するとき席順とかが決まっている
その序列を表したのが姓(かばね)
姓名は、真人(まひと)・大臣(おおおみ)・大連(おおむらじ)・臣(おみ)・連(むらじ)・宿禰(すくね)・君(きみ)・造(みやつこ)・公(きみ)・直(あたい)・首(おびと)・史(ふひと)・忌寸(いみき)・県主(あがたぬし)・村主(すぐり)など
二十種類ほどあった。

姓(かばね)は天皇が与えるもので、与えることを賜姓(しせい)という
従って、天皇とその一族には姓はない

賜姓が時代とともに、だんだん変わっていく
姓だけを与えるのから、氏と姓をセットで与えるように変わっていく

皇系の氏族が皇籍を離脱すると賜姓され、臣籍降下(しんせきこうか)という
今まで姓を持っていなかったので、氏をおこすとともに姓も決める必要がある
臣籍降下の場合は、一番序列が上の「真人(まひと)」が圧倒的に多い

第10代、崇神天皇の頃になると、臣籍降下に限らず
様々な賜姓が行われ、ほぼ氏名+姓名のセットで与えられる
皇族系持続に対しての姓が真人という原則も崩れていく

この頃の賜姓はご褒美だった
手柄を立てた氏人(うじびと)に対して、
新たに氏を起こして氏上(うじのかみ)になることを許すということ
皇族の臣籍降下にしても、皇族であるメリットよりも、
一国一城の主的な氏上になりたいということがある

そういう意味合いが強くなると「賜姓(しせい)」という言葉にも関わらず
姓だけではなく氏とのセットが主流になり
ついには、姓の方はそのままに、氏だけ与えるということすら行われるようになる

大化改新の功労者、中臣鎌足が重病になった
天智天皇はすぐに使いをよこし、藤原氏という氏名を与えた
その翌日、藤原鎌足は息を引き取る
これが、その後絶大なる繁栄を誇る、藤原という氏名の始まりである
子の不比等(ふひと)は、藤原大臣不比等を名乗る
藤原は鎌足の住んでいた地名である

ただ、氏姓制度、いくつかの重大な欠陥を抱えていた

改革が始まるのだが、そのあたりはシリーズの次回

[氏名]シリーズはこちら(少し下げてね)

[天皇] 108-2 後水尾天皇

[天皇]108 後水尾天皇。和子の入内
の続きです

後水尾天皇

寛永3(1626)年には、9月6日から五日間、
後水尾が二条城(家康の上洛時の居城として造営)に行幸した。
徳川家と天皇の密接な関係が世間に示された大行事だった。

紫衣事件(しえじけん)
しかし翌年7月、
幕府が、朝廷が臨済宗や浄土宗の高僧に与えてきた紫衣を、
違法として剥奪する、という事件が起こった。

法的根拠は、慶長18年(1613)6月16日に家康が定めた
「勅許紫衣之法度(ちょっきょしえのはっと)」である。
紫衣とは、紫色の袈裟と法衣のことで、
もっとも尊貴な服の色とされ、古代以来、法親王(天皇の皇子)や高僧が勅許により着用を許されてきた
すなわち、紫衣を与えるのは、朝廷の権限であり、収入源だった

「紫衣を与える時は、幕府に告知すべし」というもの
後水尾天皇は、無視して、許可なく大徳寺や妙心寺の僧に紫衣を与えた

怒った秀忠は、紫衣を取り消すとした

ちょっと待て
紫衣を与えるのは朝廷の権限
幕府が取り消すって意味わからん
と、猛反発した仏教界

大徳寺の沢庵宗彭・玉室宗珀、妙心寺の東源彗等・単伝士印
等は、将軍相手に訴訟を起こした
結果、それぞれ島流しになる

天皇の勅許より、幕府の決めた法度の方が優位にあると示したことになる

後水尾天皇は怒り心頭
やっとれん、と女一宮に譲位を表明
女一宮は、後水尾天皇と秀忠の娘和子(まさこ)との間に出来た娘
譲位は幕府に拒否される

さらに、後水尾天皇が頭にきたのが
お福(春日局)が天皇への拝謁を求めてやってきたこと
天皇への拝謁には、原則五位以上の官位が必要
お福(春日局)には、何の官位も持たない
苦肉の策として、遠縁にあたる公家の従三位・参議の三条西実条(さんじょうにし さねえだ)の義理の妹(猶妹)として縁組を行い、
三条西家の女性の資格で特別に参内が許され、「春日局」という名前をもらう

幕府の意向で、例外中の例外の対応を迫られ、屈辱と感じた後水尾天皇は
再度譲位の意思を固める

ここまで、4回も譲位を表明して、拒否され続けているので
最終手段
勝手に譲位しちゃう作戦

極秘裏のうちに準備をすすめ
11/8に「譲位しちゃいました」と宣言
朝廷内部でさえごく一部の人しか知らなかったので、みんなびっくり仰天

後水尾天皇の奥さんで、新天皇のお母さんである、中宮和子(まさこ)から、
そのお父さんの秀忠に伝えられる

えらいことになるぞと、朝廷内ではビクビク

とはいえ、秀忠としても
ここで全面戦争というのもどうしていいか分からない
新天皇は、自分の娘の娘、自分の孫でもある
おそらくだいぶ考えたとは思うが
結局は、「叡慮次第(えいりょしだい)」、ご勝手に
ということになった

後水尾天皇、作戦勝ち

かくして、7歳の少女が、明正天皇として即位する
奈良時代の称徳天皇以来859年ぶりとなる女性天皇であった

後水尾天皇はこの後も、上皇として院政をしき、影響力を持ち続ける

[天皇]シリーズはこちら(少し下げてね)