塙保己一の群書類従を見てきました

(5/21の事です)
ずっと見たかったんです
塙保己一(はなわ ほきいち)の群書類従(ぐんしょるいじゅう)の版木
保管している温故学会は分かっていたんですが
平日しか開いていない
平日は仕事ですからね

5/21 添乗の仕事の関連で1:20から打合せ
仕事は午後半休を取った
打ち合わせは1時間ほどで終わった
よっしゃあ
ようやく見れる
いざ、渋谷へ

塙保己一さんがどういう人で、群書類従がどれだけすごいものなのか
塙保己一(はなわ ほきいち)

時代は江戸時代、中盤をちょっと過ぎた頃

昔からの貴重な色んな本は、紙であるがゆえに朽ちでなくなってしまう
昔は印刷技術がないので、一つの本を複製しようとすると
書き写すしかない
これは貴重ってものはいくつか誰かが書き写しつつ伝承されていくが
少しづつ変わっていってしまい、どれが元々のオリジナルに近いか分からなくなってくるし
やっぱり、朽ちたり、無くなったり
国で統一して管理しているわけじゃないから
そういった書き写されたものが、どこにあるかちゃんと調べた人がいるわけでもない

江戸時代も中盤を過ぎてくると、本が大ブームになる
需要があると技術も発達するもの
木を彫って、逆さに文字を浮かび上がらせ
墨を塗って、紙を押し付けてギュッギュッ
版木の技術が確立し、優秀な彫師もいっぱい出てくる

よし、この技術を使えば、どんどん散在し無くなっていって危機的状況にある
貴重な本たちを統一的に管理し、救えるぞ
有識者たちはみんなそれに気づく
気づくのは良いんだけど
はい私やります、って人は誰もいない
ごめんなさい、私忙しいんで、どなたかやってもらえれば

お金も時間も膨大にかかるのが分かっている

唯一、手を上げたのが、塙保己一
昔の文学等を研究する国学の第一人者。
かの賀茂真淵の弟子でもある

貴重な本をどこぞの誰かが持っているらしいと聞きつけば、
どんなに遠くても訪ねていく
もうどこにも無いだろうと言われていた
令義解、日本後紀、武家名目抄、史料、蛍蝿抄
等、
日本の歴史の解明に役立つ数々の資料を執念で見つけ出していく

安永8(1779)年から40年もの歳月を経て、亡くなる2年前に完成したのが
群書類従(ぐんしょるいじゅう)
収録文献数1277種
25部門に分類して、総冊数665冊
版木の枚数17244枚
両面なので約34,000ページ分

私も色々本を読んでいると
何度も目にした。
資料が書かれていて
群書類従 第○○○巻より

もし、塙保己一が群書類従をまとめてくれていなければ
日本の歴史はもっと曖昧な事しか分かっていなかっただろうし
文学の研究も発展して行かなかったろう

そんな、日本の歴史そのものと言える「群書類従」の版木が
なんとこの令和のこの時代まで現存していて
今も現役で、そこから本が刷られている

塙保己一が意図した
紙ならば朽ちてなくなるけど
版木にして永遠に残したい
紙ならば複数に増やしたいとき書き写すしかないけど
時代を越えて、何十倍何百倍に増やし続けたい
という思いが現実に実現している

そして、その版木を特に難しい手続きもなく
間近に見れ、写真も、取り放題なんです
無料!
こんな大興奮の事がありましょうや
約250年前の版木ですよ

これだっ


版木にすられた文字

群書類従ですられた竹取物語が300円で売っていたので
思わず買いました
なんて美しい字なのでしょう


ある程度古文書が読めるようになっていて良かった
今はむかし 竹取りの翁というものありけり

ちゃんとその時代の書の達人に頼んで書いてもらったものを一流の彫師に頼んで彫ってもらっている

今まで、塙保己一について、重要なワードを使わず書いてきました
そのワードを使うとどうしても、そちらに強く印象付けられすぎるので
純粋に塙保己一の成し遂げた事が、いかに日本にとって重要で欠くべからざるものであったかに意識が向かないと思ったからです

色んな本を読んで、あっ、また塙保己一の名前が出てきた、と何度も目にするのですが
その半分くらいは、塙保己一について、そのワードが使われずに紹介されている
私はその事が塙保己一の凄さだと思ってきた

勿体つけずに、そのワードを明かしましょう

塙保己一は「盲人」です
自分の目で本が読めないのです
その塙保己一が圧倒的な量の本を永遠に残そう、残すべきだと考えた

なぜ

どうして

塙保己一については、お話したいことがまだまだあるので
その生い立ちから始めて
明日、続きをお話することにいたしましょう

[お出かけ]シリーズはこちら(少し下げてね)

[首相]50 細川護煕。55年体制の崩壊

出ましたっ
首相シリーズ50人目にして、劇的なあの時

細川護煕(ほそかわもりひろ)
1993年8月9日
1955年の自由民主党結党以来38年間続いた、
55年体制と呼ばれる自民党の単独政権が終わったのです

参議院議員をへて熊本県知事という経歴で、
閣僚経験がまったくなく、
衆議院第5党の日本新党の党首にすぎない細川護照がいきなり総理となリます。

細川護煕がどういう人か
熊本のお殿様の家系
細川忠興が関ヶ原の戦いで大活躍したので、熊本に領地を与えられる
奥さんは有名な細川ガラシャ
細川忠興の直系子孫で肥後熊本藩細川家の第18代当主が細川護煕です
お父さん、細川護貞は、近衛文麿の娘温子さんを奥さんとし、その息子なので
近衛文麿の孫でもあります
摂関家筆頭の近衛家の血も引く、バリバリの名家

最初、朝日新聞の記者になります

その時のエピソード
ある場所で護煕がお財布をなくした
その中には普通では考えられないような大金が入っていて、大騒ぎになるのですが
本人いたって冷静
「財布は買い直せば良いですから」

政治家へ転身
参議院議員を経て熊本県知事となる

リクルート事件を発端に、数々の政治腐敗問題が多発していた時代

保守対革新の図式ではなく
政権交代可能な第二の保守新党を作るべしと
「日本新党」を立ち上げる

熊本県知事の再戦は確実視されていたが、
再度、参議院に立候補
日本新党は、ミニ政党としては過去最高の4議席を確保する

宮澤内閣に対する不信任決議案が
自民党内で政治改革を推進する羽田派の賛成により衆議院で可決された
宮澤は解散総選挙を決断。

これと前後して一部自民党議員が集団離党し、
新生党(羽田孜、小沢一郎ら羽田派)、
新党さきがけ(武村正義、鳩山由紀夫ら)を結成した。

こうなると、自民党単独では政権を取れない

どことどこがどうくっくいて、政権を取るのか
水面下で活発なやり取り

細川護煕にとっては降ってわいた大チャンス
参議院議員をやっている場合じゃないと
解散総選挙の衆議院に鞍替え立候補
同じく日本新党から参議院議員になっていた小池百合子も鞍替え立候補
ともに大量得票で当選

自民党は、やはり単独過半数を取れなかった

日本新党にはあっちからもこっちからもラブコール

小沢一郎がまとめ上げる

社会党、新生党、公明党、日本新党、民社党、新党さきがけ、社会民主連合、民主改革連合の7党1会派
細川護煕を首相としてまとまりませんか

前代未聞
衆議院議員になったばかりの新人さん
閣僚を一回も経験していないのにいきなり白羽の矢がたった

内閣発足直後に行われた世論調査では内閣支持率が軒並み70%を超え、
これは当時としては空前の高支持率となった。

首相になってからは、シリーズの次回ね

[首相]シリーズはこちら(少し下げてね)

[織田信長]5 天下をお取りになるまでは

[織田信長]1 まむし殿の娘、濃姫
[織田信長]2 二人だけの時間では
[織田信長]3 美濃はそなたに差し上げる
[織田信長]4 血戦桶狭間
の続きです

家康
桶狭間の戦いに勝利した信長
桶狭間の戦いで今川勢で唯一勝利したのが徳川家康
他の今川勢が総崩れになったために、人質の身から晴れて解かれ、実力で岡崎城に戻れた
残った今川勢の中で、今川当主となった、今川氏真に対して
義元殿のとむらい合戦をいたしましょうと呼びかけるも、氏真はその気なし

織田信長は、徳川家康の戦いぶりに感服し、和平を申し入れる

今川義元には恩義を感じていたものの、氏真には何の感情もない
この機会に、織田陣営に鞍替えすべきではないか
随分議論が交わされた後、家康自身が判断
清須に赴いて、織徳同盟が交わされる
この後22年に渡って破られなかったのは、戦国時代にあっては珍しい

美濃攻め
報せが舞い込む
斎藤(土岐)義竜病死
妻濃姫の父斎藤道三を殺した相手
あとは義興が継いだ
好機到来
美濃攻めに打って出る

ところが、美濃の斎藤勢が、めっぽう強かった
織田勢は総崩れになり、逃げる
追手に迫られ、信長自身、絶体絶命の危機

そんな時に、斎藤勢の居城、稲葉山城の近くに灯りが近づいて行くのが見えた
まずい。空けている城が取られる、と斎藤勢が引き返した
九死に一生を得た
実は、その灯り
木下藤吉郎秀吉が山のあちこちに、たいまつを灯して回ったものだった

代替わりしたての斎藤勢がなぜあんなに強かったのか
そこには、卓越した軍師、竹中半兵衛がいた

再び攻めるにおいて、同じ方法では勝てない事が分かった
様々な議論が交わされ
敵の領地内に我が軍の攻撃拠点の城を作ろうということになる
墨俣(墨俣)川の敵方の領内に墨俣城を作る。
ただ、墨俣川は雨で増水すると織田側からは渡れなくなり孤立する
超短期間で築城を完成しないと危ない

担当を命じられた佐久間信盛はチャレンジしたものの、早々にギブアップした

築城の件、この藤吉郎にご下命くだされば幸いでございます

秀吉大出世のきっかけとなった語り草、墨俣一夜城である
足軽主に過ぎなかった木下藤吉郎秀吉は、一気に墨俣城の城主となる

準備は整った
本格的に美濃攻めに取り掛かろう

藤吉郎秀吉が情報を入手
竹中半兵衛が忠興と不仲になったらしい

竹中を説いて、わが陣営に取り込みましょう

秀吉は自ら変装して竹中のもとへ
説得を試みるも一蹴
主君を裏切るなどもってのほか

あきらめない秀吉は、二度三度訪れ
とうとう、七度目の訪問で口説き落とした

永禄7(1566)年
本格的な美濃攻め開始

籠城していた斎藤忠興は降伏して城を明け渡す

信長、稲葉山城に入城
斎藤道三死後、5年半にしてようやく美濃攻めに成功した

「お濃、とうとう生まれ故郷に帰ってきたな」

「亡き父も喜んでおりましょう
殿は、これだけでは満足なさらないでしょう
天下をお取りになるまでは」

天下を取る

誰にも言ったことのなかったこの要望
濃姫には感じ取られていた

沢彦(たくげん)和尚を召寄せた

稲葉山城という名、どうも気に入らない
何かいい名前はないか

稲葉山は金華山
稲葉山城は岐阜城と名前を変えた

岐阜
中国、周の時代の岐山にちなんだめでたい名前

天下布武

この頃から、この印鑑を使うようになる

[歴史]シリーズはこちら(少し下げてね)

[家重]4 お庭をともに歩きとうございます

[家重]1 まいまいつぶろと呼ばれた将軍
[家重]2 家重様の目と耳になってはならぬ
[家重]3 どんな駒でも、前に進むことができる
の続きです

京都から、家重の特別な事情を知らずに、公家のお嬢様、比宮(なみのみや)が嫁いできたところでした
比宮(なみのみや)
嫁いできてから10日間は、大奥や幕閣たちの訪問が続き肝心の家重との対面は果たせずにいた
その間も、家重からのそうび(薔薇)の花は毎朝、比宮のもとに送られている

そして、11日目
比宮の家重との対面

比宮は戻ってきて青ざめていた

比宮のお付きのお幸が何を尋ねても、何かを答えられる状況になかった
部屋にこもって、ただすすり泣くばかり

数時間後
再度お幸が尋ねる

何があったのでございますか

家重様は尿を漏らしておられた

ゆばり? あの尿でございますか。比宮さんはまた、何をお言い出されますやら

お身体にまともなところはなかった。
右足は曲げることもできず、横へ放り出されたまま。
右手はだらりと横に垂らしておいでで、口からは涎が零れていた。
お顔も、醜く歪んでおいでじゃ

この時代の公家は食べていくのがやっと
このまま京都にいても何も良いことはない
比宮は意を決して江戸にやってきた

運命
家重があのような体で生まれたのも運命
私がそこに嫁いできたのも運命

そうは思うのだが
それでも

比宮が涙を見せたのはその日だけだった
だが、毎朝の花が届いても、見ようともしなかった

そのうちに、花も届かなくなった
懐かしい京都からお道具が届いても、かえって比宮の気持ちは沈んでいった

お幸。武家では男子が生まれねば御家断絶であろう

はあ、武家に限ったことでもございませぬが

家重様はどうなさるのであろう。
誰ぞ、世継ぎを挙げて差し上げれば、私も肩の荷が下りるが

・・・
私のせいであろうか

婚儀のとき
2度目の対面となった
忠光を通じての何らかの会話が持たれる事はなかったが、
初めての時よりは、冷静に家重の事を見ることが出来た

比宮がそっと家重の顔を窺うと、こめかみから汗が流れ落ちていた。
動くほうの左の拳は堅く握り込まれ、
口許はわななきながら一文字に食いしばられていた。

少しは家重の身になって考えることも出来た

一度、忠光殿を召されてはいかがですか?

お幸の言葉には、そのうちに、と答えただけだった。

忠光だけが家重の言葉を解する
その事がよく分からなかった

比宮が江戸に来て、初めての正月が過ぎ
家重から久しぶりに届けられたのは白梅だった
老中の酒井忠音が自ら持参した

家重様が、甘藷を庭に植えておられるのですがな
ご自身が上様のためになるのはそれくらいだと申されまして。

家重様が?
それではそなたは、家重様の言葉が聞き取れるのか

いえいえ、忠光にございます

そのものの申すこと確かか

お疑いなのも無理もございません
私も最初は疑っておりましたゆえ

二人がいるところで、聞こえてしまったのですが
薔薇の棘をとってくれぬかと、
家重様が、忠光に、頼んでおりました
あやつ、癖になっているんでしょうな
二人だけの場で自分に対する言葉ですら、
そのまま一言一句違わず口に出します

確かに薔薇の棘は取ってありました

比宮様のお好きな花は、何でございますか

薔薇です

忠音は満足そうに微笑んだ

それがしから、家重様にお伝えしておきましょう
比宮様がもう薔薇はお好みではない事は、家重様に伝わっておりましたゆえ

私はそのような事は申しておりませぬ

仰せにならなくとも、伝わることは多ございます
人というのは口が聞けずとも、思いを伝えられるということになりますな
ならば、私からだけではなく、比宮様からも文をお書きになってはいかがでしょう

比宮は文を書いた

お庭をともに歩きとうございます

あくる日

このあとは、シリーズの次回ね

[歴史]シリーズはこちら(少し下げてね)