[首相]45-2 中曽根康弘。行革断行

[首相]45 中曽根康弘。風見鶏と言われても
の続きです

中曽根康弘
いよいよ、中曽根康弘が総理になりました

鈴木善幸内閣で、行政改革に取り組んでいた
よし、このテーマをやり遂げるぞ

大きくは2つ
1.三公社民営化
2.官公庁組織の改編

三公社民営化は良く覚えています
国鉄がJRになり
電電公社がNTTになり
専売公社がJTになった

これすごいなあ
小泉さんの時、郵政民営化であんなに大騒ぎしたのに
その3倍ですもんね

JRが分割民営化されて、色んな事が良くなった気がする

ただ、本人は
三公社民営化よりもっと官公庁組織の改編の方が大きな成果をあげたと言っている

特にその中で
予算の編成権を大蔵省から取り上げたこと
第2次臨時調査会(第2臨調)に担当を移し変えた
臨調のような、総理の直属の諮問機関が絶対的な権限を持ったことで
官僚主導から
大統領的な、トップダウンの意思決定が出来るようになった

これがゆえに、JR分割民営化なんて強烈な改革ができたのかも知れない

そうなるともう恐いもんなし
やりたい放題で、今までできなかった色んな改革をやってやるぞ!

ところがここに落とし穴があった

強大なる総理たりとも、国民の民意には勝てなかった

「売上税構想」を掲げちゃった
要するに消費税

国会の牛歩戦術とかもあって
大もめにもめた

内閣支持率が一気に急降下

売上税構想は取り下げ
総理も退任に追い込まれた

当時としては、歴代5位の4年11ヵ月の長期政権だった

[首相]シリーズはこちら(少し下げてね)

[ことば日本史] 下手な鉄砲も数打ちゃ当たる

「ことば日本史」戦国時代から

下手な鉄砲も数打ちゃ当たる
前回、鉄砲伝来の時の話をしました
[ことば日本史] 火蓋を切る

当然ながら、これも鉄砲の伝来後に生まれたことわざになる。
種子島に伝わったのは、マラッカ型の瞬発式点火機構をもった火縄銃だった。

鉄砲には、火縄銃のほかにも、機構のちがうタイプのものが複数あったが、
日本人は火縄銃を好んで、寛永年間(1624~44)に燧石銃(ひうちいし)が伝えられても、興味さえ引かなかったという。
それは発射時の衝撃のため命中率が落ちるからだった。
各種の銃は、それぞれに一長一短あったが、日本人はなにより命中率を最優先した。

それは日本の複雑な地形での合戦に向いていたからだという。
実戦のほとんどない江戸時代には、
火縄銃の発射までの手順に要する間が、
ちょうどいい感じだなんて思われていたかも。

命中率を最優先した中で「下手な鉄砲も数撃ちゃあたる」なんて、
すごくバカにしてる言葉だったのだろう。

ただ、私はこのことわざを自分で使うときのニュアンスが好きです
「下手な鉄砲も数打ちゃ当たるってね」
自分を謙遜しつつも、諦めないぞ!って挑戦し続ける意欲
よーし、また明日から頑張るぞ

[言葉]シリーズはこちら(少し下げてね)

[天皇]106 正親町。120年ぶりの譲位

天皇シリーズ
[天皇]105 後奈良。二人の将軍の間で
の続きです

正親町(おおぎまち)
1557~86年

戦国時代の天皇は、践祚(せんそ)しても即位礼がなかなか行えないというような事が続いた
お金がないという原因
朝廷にお金がないのもそうだけれど、費用を頼っていた将軍家も戦乱に明け暮れ、金がなかった

それぞれの在位期間はとても長い
譲位しようとしても費用が出ず
先代が亡くなっての践祚になるので、長くなる
正親町に関しても、在位期間が30年ととても長い
13代将軍義輝(よしてる)の時に始まり
14代義栄(よしひで)、15代義昭(よしあき)
そして織田信長、さらには豊臣秀吉と
とても長い期間に渡る

元号
改元は原則、将軍等から奏上されて、天皇が決める
天皇としては一大イベントなんだけど、これにもかなりの金がかかる
正親町天皇践祚のタイミングで、弘治から永禄に変わっている
それが、将軍義輝に伝えられなかったようで
将軍と天皇の間がギクシャクする

例によって即位式は将軍家から費用が出ず3年間できずじまい
3年後に費用を負担したのは、将軍ではなく毛利元就だった
さらに、永禄7年は60年に一度やって来る甲子の年
その年に、改元するのは決まりごとみたいなものだけど
改元の奏上をしたのは、将軍ではなく、松永久秀だった
結論的には、この改元は行えなかった
甲子の年に改元できないのはかなり異例

14代義栄は結局入京出来ないまま亡くなる
代わりに入京したのが義昭と織田信長
義昭から奏上され「元亀」に改元される
その後、義昭と織田信長の関係が悪化すると
今度は織田信長から奏上されて「天正」に改元される

譲位
となると天皇の次なる願いは譲位
譲位して院政は、天皇の永年の夢
天皇が力を持っていた時の象徴でもある

織田信長が譲位を提案

えっ、ほんとですか?
何せ最後の譲位は、後花園天皇が後土御門天皇に譲位した1464年
応仁の乱の少し前
応仁の乱後は全く譲位できていない

ところがいざとなると、信長側でそれどころじゃなくなった
数々の戦が立て続けにおこる

ある程度信長が落ち着いてきた、天正9年
再び、譲位の話が持ち上がる
天皇が、信長を左大臣に任じようとする
息子の誠仁親王への譲位との交換条件

分かりました、OKです

ところが、実際にはこの時の譲位は行われなかった
翌年の大事件
本能寺の変です

引き継いだ豊臣秀吉
譲位に向けての動きを本格化する

天皇譲位後の院政を行う住まいを造営
正親町、おおぎまちって変わった名前だけど
その住まいの置かれた京都の地名

ところが、いよいよって時に二つの悲劇が襲う
ひとつは大地震
被害は甚大で、ちょっと延期
更なる悲劇
なんと、譲位する先の誠仁親王が病気で亡くなっちゃった

譲位したかったのにぃ

この時のためにどれだけ準備をしてきたのか
諦めきれないよ


ひらめいた!

ってことで、孫の和仁に譲位
後陽成天皇です

正親町70歳でした

最後の譲位から実に120年ぶりの事でした

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[首相]45 中曽根康弘。風見鶏と言われても

[首相]44 鈴木善幸。和の政治
の続きです

かくさんぷくだいれいちゅうの最後、「ちゅう」
かくさんぷくだいれい、までは全て2年ずつですが
中曽根康弘だけは、5年やってるんですね
このあたりになってくると、ついこの前ってイメージになってきます

中曽根康弘

首相王国群馬県、有数の材木商「古久松」の次男として生まれる
海軍へ入り青年将校とする

悲惨な戦争を体験し、大切な仲間を失う
27歳で終戦を向かえる

占領下で、多感な青年は政治家に転身
数々の発言が物議をかもす
吉田茂内閣を徹底批判

一刻も早く占領を終わらせるべし、との建白書をマッカーサーに提出
これを見たマッカーサーの側近ウィリアムズは、
「このようなものは受け取れない」と即座に突き返そうとした。

「この建白書は、すでにアメリカの上院議員らに送った。
彼らが読む前に、ぜひマッカーサー司令官に読んでもらいたい」

ウィリアムズはしぶしぶ受け取ったが、
建白書の占領軍批判にマッカーサーは激怒し、破り捨てようとした

派閥の長へ
佐藤栄作総理の再選をめぐって、派閥の長河野亡きあとの
春秋会が分裂した。
河野の遺志を継ぎ反佐藤を貫く中曽根らと、
佐藤支持に活路を求めるグループに分かれたため、
中曽根は「新政同志会」 を立ち上げ、
最年少の 46歳で派閥代表となった。

ところが1年を待たず、
中曽根は佐藤に請われて第2次内閣の改造の際に運輸大臣に就任する。
中曽根の豹変ぶりに、「風見鶏」と批判が集中したのがこのときだった

この時大きく学習したのだろう
批判ばかりではやりたい事は実現できない
小派閥の長としては、風見鶏と言われようが
首相になるため、つくべきところにつく

主要大臣を次々歴任しつつ実力をつけ
総裁戦にも出馬

大平正芳が亡くなった時、次は中曽根かと言われたが
田中角栄が鈴木善幸を推した
ここでは、鈴木が最も力を入れた、行政改革を担当

鈴木善幸が突然、総裁戦に不出馬を表明
いよいよ、その時がやって来た

総理になってからは次回

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