[縄文] 縄文人は生きている

昨日予告した「縄文人は生きている」という本から引用して、書いていきたいと思います

縄文人は生きている

去年の2月の事です
ご近所をウォーキング
GoogleMapを見ると「新山(しんやま)遺跡」というのがある
どうも中学校のある場所
行ってみましょう

経緯までは覚えていないのですが
「縄文人は生きている」という本の存在を知り
感動して、ぜひ購入したいとAmazonで購入

どういう事か話していきましょう

小学校と中学校を作ることになった
工事していると土器が出た
どうも縄文土器らしい
さあ、どうする
よく起こる開発と保存のせめぎ合い

学校も作るけど、遺跡も保存するという結論になり
プールは屋上に作るなど、当初の設計図を大幅修正

遺跡発掘に携わった人たちは
せっかくこの地域で出た遺跡なので、できるだけ地域住民にも分かってほしいと
頻繁にイベント等の交流をしながら進めていく
その時、最も積極的に参加してくれたのが、小学生たち
学校帰りに頻繁に発掘現場に立ち寄るようになり
発掘現場は子どもたちの遊び場状態になった

おじさん、これ何?
子どもたちの好奇心は留まるところをしりません
縄文時代にどっぷりハマっていきます

一番熱心だったのが第七小学校の4年生の子どもたち
1976(昭和51)年のこと
私は1960年生まれですから、私が16歳の時になります。
今は私と近い年齢になっていると思います

2年が経ち、その子どもたちは6年生
卒業記念に、縄文時代の版画集を作ろうという話が持ち上がる

発掘当時の専門家たちに協力要請
専門家たちも大喜びで二つ返事

何度も何度も会合が持たれ
体験学習として、実際に色んなことをしながら
縄文人は彼らの中で友達と思えるほどの存在に膨れ上がっていった

あまりに素晴らしい出来栄えに
これを残したいと思うようになり
何と、本になって出版することになったのです

小学生たち、嬉しかったろうなあ
おそらく、大人になってもずっと誇れる思い出になったに違いない

嬉しかったのは子どもたちだけではない
序文を見ると、世話役の専門家にとって、衝撃の出来事だったようだ
「版画集を手にした時、正直いって、脳天に火花が発するほどに、強いショックを受けました。専門家がいくら細かい研究を重ね、いろいろとむづかしい理屈をこねてみても、なかなかつかめないものを、この小学生たちはしっかりと自分の中で探り当てたのではないか、と」

学者が、「事実」を積み上げたものは確からしいものとして尊いが
真実ってひょっとするともっと超越したところにあるのかもしれない
既成概念にとらわれず
子どもたちが縄文人になりきって、考え、動いてみたとき
学者には分からないことが見えてきたんじゃないか



版画に描かれた、生き生きとした縄文人たちは
子どもたちそのものだったのかも知れない
「縄文人は生きている」ってタイトルは
そのことを言いたかったのかも

本の中身もいくつか紹介していきたいので
このあと、ちょっとしたシリーズにして、版画とともに紹介していきたいと思います

[歴史]シリーズはこちら(少し下げてね)

[首相]50-2 細川護煕、国民福祉税構想から陶芸家まで

首相]50 細川護煕。55年体制の崩壊
の続きです

細川内閣が始まりました。

細川内閣
衆議院への従来の中選挙区に代わる小選挙区比例代表並立制の導入を柱とする政治改革関連法案が1994年(平成6)1月22日の参議院本会議で否決されると、
細川総理と自民党の河野洋平総裁がトップ会談を行ない、ようやく合意に達した。

この結果、改正公職選挙法や、政党助成法などが成立し、
同年12月の施行が決まる。

これに先行する1993年(平成5)12月には、
コメの部分市場開放を含むGATT(関税および貿易に関する一般協定)の新多角的貿易交渉(ウルグアイ・ラウンド)の調整案を受け入れている。

なにせ国民の人気は絶大
政治基盤を固めつつあった細川総理だが、
1994年2月3日未明、
3%の消費税を廃して税率7%の国民福祉税を創設することを発表。

消費税であれだけもめて、みんなに嫌われたのに
いらんこと言っちゃいました

与党の社会党や新党さきがけからも反対が出た
翌4日に撤回せざるをえなくなり、政権は大きく傷ついた。

野党となった自民党は、
細川個人の東京佐川急便からの1億円の借金問題を執拗に追及するが、
その釈明に疲れた細川総理は4月8日、
辞意を表明。

殿はあっさりしております

退陣後、各党の離合集散が混沌とします
細川護煕は、退陣後、新進党、フロム・ファイブ、民政党、民主党と渡り歩く

陶芸
還暦を期に政界を引退
陶芸家となる
陶芸家細川護煕はかなり積極的に活動
Webで細川護煕で検索すると
むしろ政治家としてより陶芸家としての方がいっぱい出てくるほど

完璧に政界から引退と思っていたら
あら不思議
小泉さんに担がれて東京都知事選に立候補
落選しちゃいましたけど

本人、とても満足した人生だったんじゃないかな

[首相]シリーズはこちら(少し下げてね)

[織田信長]6 上洛の大義名分

[織田信長]1 まむし殿の娘、濃姫
[織田信長]2 二人だけの時間では
[織田信長]3 美濃はそなたに差し上げる
[織田信長]4 血戦桶狭間
[織田信長]5 天下をお取りになるまでは
の続きです


信長の野望を藤吉郎秀吉が、竹中半兵衛に語ったとき
竹中が自説を述べた
第一に、強敵、武田には、ひたすら下手に出て和平の誼を結ぶこと。
第二に、浅井、朝倉両氏に対しても同じ

伊勢は?

あれはさして怖るべきものではありますまい。
和よりも戦いを以て屈服せしめる方が早いでしょう

藤吉郎は、信長に竹中の案を進言した。

よかろう。おれも、そう思っていた

信長は急を要するときは独断専行だが、
そうでなければ部下に十分に意見を述べさせた

最上と思った意見について
おれもそう思っていたと言って採用する

武田にただただ媚びる外交を始めた
贈り物をたんとしたあとに、縁組を提案
信長の姪を武田信玄の息子勝頼に嫁がせた
翌々年、男子信勝が誕生した
ところが、産後の肥立ちが悪く、信長の姪が亡くなってしまった

今度は、信玄の娘を信長の息子信忠の嫁にもらう
二人ともまだ11歳

次に徳川家康
家康とはすでに同盟関係を結んでいるが
武田牽制の意味でも同盟を強化しておきたい
娘たち徳姫を、家康の息子信康に嫁がせた

近江の浅井長政
こちらには、妹のお市の方を嫁がせる事を提案
お市の方は絶世の美女
長政は心動くが、一つ条件をつけた

浅井は越前の朝倉と強い同盟関係にある
もし、将来朝倉を攻めるようなことがあれば、立場に困る
将来に渡って、朝倉攻めはしないとお約束いただきたい

承知した
将来どのようなことがあろうとも、朝倉に戦いをなすことはいたしませぬ

伊勢については、戦いをもって屈服させる方針
滝川一益に、伊勢攻めを命ずる

滝川は、武力をちらつかせ、戦わずして伊勢を降伏させた

上洛の準備が整ってきた

そこに千載一遇のチャンスが訪れた

足利義昭が信長に支援を求めてきた
義昭は足利13代将軍、義輝の弟
義輝が、三好一門に急に殺された
三好は、義栄(よしひで)を立てようとする

義昭の一つ上のお兄さんも殺された
次は自分の番
助けてーっ

義昭はそのような危機的状況の中でも
兄義輝のあとの将軍は自分であると自信満々

上洛の大義名分ができた

さあ、続きは次回

[歴史]シリーズはこちら(少し下げてね)

[ことば日本史] 伊達(だて)

ことば日本史、戦国時代から

伊達政宗
米沢を本拠にしていた戦国大名、伊達政宗は、
天正十七年(一五八九)、会津の名門、 蘆名(あしな)氏を破り、
領土を大きく広げて、全国でも有数の大大名となった。

だが蘆名氏と戦ったことは、豊臣秀吉によって禁じられていた私戦であり、
勝手に会津を領したことは、秀吉の怒りをかった。

「ただちに上洛せよ」
という秀吉の使いがやってきた。

迷った末に、政宗は小田原攻めの途中だった秀吉のもとへ向かう。

そのとき政宗は、鎧のうえに真っ白な麻の陣羽織を着て、
髪を茶筅結びさえできないくらい短く切っていた。

喪服仕立てで死の覚悟を示して見せたのだ。

だが秀吉は、会うことも許さず、政宗を箱根の底倉に押し込め、
前田利長らに詰問責めにさせた。

押し込められた政宗は、
秀吉とともに千利休が小田原に来ていると聞いて、茶の稽古を所望する。

それを聞いた秀吉は政宗を見直し、面会を許したという。

政宗は、蘆名氏領を没収されただけで、米沢に戻ることができた。

このエピソードにうかがわれるように、
政宗は派手なパフォーマンスで人目を引くことが多かった。

文禄元年(一五九二)、秀吉が朝鮮への出兵を命じたときには、
割り当てられた出兵員数が千五百人であったにもかかわらず、
三千人の軍勢をひきいて出陣した。
しかも、紺地に金の日の丸を入れた幟を三十本も立てて、
美しい馬にかけた黒母衣には金の半月印をつけ、
兵士らは豹、虎、熊の皮、あるいは孔雀の尾羽を飾り、
黄金でのしづけした太刀をはくという、ひときわ目立つ装束で飾っていた。

京の見物人たちは、驚き、感心する声をあげたという。

また政宗は、「鄙(ひな)の華人」と呼ばれるほど、
文芸、芸道に深く通じており、とりわけ茶道に精進していた。
だから派手というだけでなく、センスもよかったのである。

そこで、この伊達政宗のダンディズムにちなんで、
江戸時代には華美な風俗を伊達風というようになったという。

実際には、伊達政宗がいた時代よりも古くから、
ダテという言葉は使われているので、
元々の語源が政宗ということではない。
心を立て通し強く意気地を張るという意味の
「たてだてしい」が略されたものであろうという。

ただそこに、伊達政宗の印象や伝聞が、
加わっていったのだと思われる

もっとも今では、見栄を張っただけのおしゃれのことや、
「ダテめがね」「ダテじゃない」などというように、
実質をともなわないという意味で使われるようになった。

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