[明治維新] 町人もえらいこっちゃ

[明治維新] 江戸から東京へ、大混乱
の続きです。

前回は武家を中心に見ていきましたが、今度は町人
大きく揺れ動きます。

家守
江戸時代に、町人ってどういうふうに住んでいたかというと
大通りに面したところに家があり、その奥に木戸を開けて入っていくと路地があって、
長屋が繋がっている

大通りに面した家の人(家守[やもり])は、土地建物を所有しており
長屋に住む人達は、その人に借りて賃貸生活
これが基本パターン

江戸時代も長いので
最初の頃はこの基本パターンが多かったのですが
徐々に崩れていきます。

家守が所有するのではなく
他の人が所有して、全部を貸す。

都市の豪商だったり、地方の豪農もいます。
いわゆる不動産経営ってことです。
ゼネコンやデベロッパーって事でしょうか
例えば、深川あたりは、越後屋が大規模開発しています。
三井不動産ですね。

幕末に近づくと、家守が家を所有している割合は
たったの3%というところまで減ってしまいます。

「江戸東京の明治維新」の横山百合子さんは
「身分制度」を士農工商というような単純なものじゃなく捉えていて関心させられます。

ある特定の集団というか同じ立場の人達が
幕府から特権を認められ、それに見合うだけの義務も負う
それを身分と表現しています。

そういう捉え方だと、家守は身分になります。

家守は地主との関係においては、雇用関係です。
雇われているので、給料がもらえ、その代わりに地代を店子(たなこ)である住民から徴収する

現代社会ならそれだけですが
幕府から認められた「身分」というのが加わります。

店子の糞尿を売る権利が認められる
肥料として実に高く売れる
店子からもらった、樽代(敷金礼金みたいなの)は地主には行かず懐に納めて良いし
ゴミ処理でも利益が上がるんだけどそれももらっていい。

その代わり、長屋の治安は全責任を負う。

幕府って、例えば警察機能の与力や同心って
町民の人口が50万人もいるのにたったの125人しかいない

特権を与える代わりに、自分達がやるべきことを分担させる

例えば床屋って許可制なんだけど、橋の近くでないと認めてくれない
営業を認める代わりに橋のメンテナンスは全部床屋の義務

そんな感じで民間の人達に色んな「身分」を作って分担させていく。

それで極端な小さな政府を実現していたんです。

床店(とこみせ)
床店、と言われている出展形式がある
路上で営業する、屋台です。

例えば、江戸橋広小路には、床店がびっしり並ぶ
ここからここまではあなたね、と許可していくんだけど
その前の道は床店の人が全責任を負う
掃除に始まり、前で起きた喧嘩の仲裁、行き倒れの介護、死んじゃったら死体の処理
捨て子があったらしかるべき保護者を見つけるところまで。

ところで、床屋だったり床店だったり、吉原なんかもそうなんだけど
許可制ということは、違反の取り締まりをしないといけませんよね
それすら幕府はしません。
仲間内で全部違反者の取り締まりまでさせる

明治維新
さあ、明治維新でどうなったか
明治政府は、そういった分かりにくい身分制度、すなわち特権をことごとく否定していった。

まあ確かに変です。
外国に説明しづらいものはやりたく無いわけです。

大きく言うと資本主義です。
自由競争です。

言わば、江戸時代は特権に守られ、努力などと言うことはしなかった。
のほほんと生きていけた訳です。
出る杭は、仲間内で、徹底的に打ちのめして、あとは平和
成長や発展などというものは、社会全体として望んでいませんでした。

この考え方の転換はえらい大変です。
考えないと行けません。

とはいえ、全ての特権は義務を伴っており
それはみんな真面目に一生懸命やっていた。
特権と義務は釣り合っていたんです。

明治政府は、いきなり全ての特権をとっぱらった
当然伴っていた義務もする必要がありません

じゃあ誰がやるの?
そこ、あんまり考えてなかったんでしょうね
治安はどんどん悪化し、大混乱に陥っていきます。

結果として、政府は巨大化せざるを得なくなり

戦争に走ったのも、財源の確保ということがあったんでしょう。
最初の頃は勝ちましたからね

[明治]シリーズはこちら(少し下げてね)

[天皇]26 継体天皇。途切れたその後に

天皇シリーズです。

継体天皇
男大迹王(おおどのおおきみ) 507~531年

とうとう、天皇の血筋が途絶えてしまいました。

残念でした、はいお終い、という訳にはいきません。

大連(おおむらじ)の大伴金村は、ふさわしい天皇を探しにかけずりまわります。

朝鮮半島では、百済(くだら)が、武烈天皇がやる気もなければ人柄もダメだと分かるとなめてかかってきた。
日本の支部的な任那(みまな)を攻めて陥落
このままぐずぐずしていると、日本の本土にも攻め入って来ないとも限りません。

日本の将来を託すにふさわしく、百済とも渡り合える、力を持った人

各地の有力な豪族をリストアップし、検討していきます。

よしっ
丹波の倭彦王(やまとひこのおう)が良いぞ
朝鮮にも明るいらしい。

お乗せするための輿(こし)を準備して、丹波へ

一方の倭彦王、大和から人が大勢来たのを見て
まずいっ
さては私を討ちに来たな

大急ぎで山の中へ逃げ隠れてしまった。

違うのよー

残念。次を探そう。

越(こし)の国(今の福井県)に良さそうな人を発見
オオド(男大迹王)
58歳と年齢は高めだが、息子が評判良いらしい。
セットで考えれば2代は安泰。

天皇の印の旗と、輿(こし)を準備して、越の国へ

今度は逃げ隠れせず、堂々と会ってくれた。

丁寧に説明。

ただ、ことが大きすぎるので、即答は避けた。
色んな方面に話を聞くと、大伴金村はかなり熱心ならしい

分かりました。こんな老体でよろしければ。

即位
継体天皇となります。
良かった。思った通りの良い人でした。

農業や養蚕が大事と
自ら田を耕し、奥さんは蚕を飼う。

さあ、問題は外交
大伴金村は、百済の求めに従って、正式に任那を割譲
ところが、任那は百済は嫌だと、新羅(しらぎ)に近づく

おいおい、と任那に6万の兵を送った。

新羅は、手薄になった日本国内をひっかきまわそうと
筑紫国造の磐井に賄賂を送り、
国内で反乱を起こさせる。

継体天皇は、物部麁鹿火大連(もののべのあらかひのおおむらじ)を大将軍にして筑紫に派遣
平定します。
これが古代の「磐井の乱」と言われる争乱です。

[天皇]シリーズはこちら(少し下げてね)

地元ウォーキング、廃線跡を歩く

(9/23[祝]のことになります。)

3連休です。台風です。
昨日、皇居も行ったし、いつ降り出すかも分からないので
小さめの、歩いて行ける地元ウォーキング

住んでいるのは、東京都東久留米市
図書館に行っていると、東久留米市に関わるコーナーとかもある
市が出しているお勧めウォーキングマップのようなものは、もう既に行っているんだけど
深めに色々読んでいくと、お勧めウォーキングマップには書いていないスポットも見つかる
今日は、そんな取り残しスポットを巡りましょう。

旧延命寺跡
ここ、そもそもお寺すらない。

うちのマンションの前が小金井街道で、すぐ前にバス停がある
中央線の武蔵小金井駅方面に行くと、二つ目のバス停が、前沢宿
交差点の名前も前沢宿
宿? ちょっと気になっていた。
図書館の本で、ようやく意味が分かった。

江戸の周りって、江戸時代に、将軍や御三家の鷹狩りの場所になっていることが多い。
ここ東久留米もそう。
将軍ではなく、尾張藩

尾張藩の藩主たちがこのあたりに鷹狩りに来たとき
拠点とする定宿が、この延命寺
前沢御殿(あるいは楊柳沢御殿跡)と呼ばれていた。

結構頻繁に来ていたようです

その度に、300人くらいがどどっとやって来るもんでえらいこっちゃ
宿場町的な発展を遂げます。

延命寺は、明治の廃仏毀釈の時に、大円寺に吸収合併させられて、廃寺なんですが
お墓と、石仏群だけが残っています。

中でも、この天保9(1838)年に作られた法印権大僧都亮孝墓塔(ほういんごんだいそうずりょうこうぼとう)は
とても珍しい

この髪型で大日如来ってあら不思議

米津寺(べいしんじ)
米津寺って、恒例の正月の七福神巡りに入っているので、来たことはあるんですが
それほど詳しくは知らなかった。

米津(よねきつ)家という大名であり、久喜(くき)藩主で
途中から長瀞(ながとろ)藩主(現山形県東根市)の菩提寺

歴代藩主のお墓がずらっと四つ。みんな同じ形の六角屋根付き(すみません。3つしか写ってなかった)

歴代藩主のお墓が揃っているのは、いくつか見たけど
逆に言うと、いくつかしかない。
それが、自宅から歩いてすぐのところに有ったなんて知らなかったなあ。

ん、これは?
一番でかい、宝篋印塔(ほうきょういんとう)

後で調べると、初代の正室のもの
やっぱりね。カミさんはいつの世も偉大です。

次の目的地まで、いつもの定番スポットを確認しつつ行きました。
落合川、いこいの水辺、氷川神社、南沢湧水地、川の中の子供のプール、多聞寺、竹林公園
一回紹介しているのでまるっと省略ね
東久留米名所めぐり(娘とともに)
写真は、竹林公園のものをひとつだけ

武蔵野鉄道引込線跡
一番来たかったのがここ

細くて長い小道があるなあとは思っていたんですけどね
川が暗渠になっているのかなあ、程度にしか思っていなかった

まさか鉄道の跡だったとは
今の西武池袋線東久留米駅からスタートし
中島飛行機の支社の工場まで。

中島飛行機と言えば、以前もお話しした零戦のエンジンとかも作った偉大な会社
鋳型の材料の砂とかを最寄りの田無駅から車とかで運んでいたんだけど
どうにも間に合わなくなって、よし鉄道を引いちゃおうと
金持ってますね。

こんな感じです

そのあと、すぐ終戦になっちゃって中島飛行機は無くなっちゃう。
この鉄道の権利がすったもんだする
西武鉄道は自分のものにしたかったようで
線路の上に、自分の電車をぽんぽんと配置
動かす訳では無いんですが、使ってますよ的意思表示
いつまでも、決着がつかず、動かしていない訳ですから
ボロボロになった車両が点在していたそうです。

今は、東久留米市が、たての緑地という名前で保存しています。

さあ、どこまで行けるかな
汽車になったつもりで

シュッシュッポッポ シュッシュッポッポ

市が変わって、西東京市になると、たての緑地じゃなくなっちゃいます。
ひばりヶ丘のでっかい団地の端っこの道

むしろお洒落です。
東久留米市より西東京市の方が金持ってるのかなあ

おそらくこの辺が、中島飛行機
要は、跡地をでっかいひばりヶ丘団地にしたんでしょうね

おでかけマップ

[江戸城] えっ、こんなところに、何これ

[江戸城] 江戸城の全貌を確かめに。
の続きです。

さあ、入城です。
すぐにあるのは三の丸尚蔵館
世界各国から皇室に贈られたお宝が展示してある。
前回行ったので、今回はパス

売店がありました。
入ると、ガイド本も売っているじゃありませんか
だいたいどこの観光地に行っても、そこで売られているガイド本があれば
1000円以内なら買うようにしています。
東御苑セルフガイドブックというのを買っちゃいました。

ただでさえ、二つの本を読みながら大忙しなのに、三つはてんてこまいです。

番所
同心番所
百人番所

大番所

とチェックの場所が続きます。

不思議だなあ
江戸時代の与力と同心という警察機構は、極端に人数が少なく
人口100万人もいるのに、与力で25人、同心で100人くらいしかいないはず。

この三っつの番所にいたと書いてある与力と同心の数を合わせると
もう、それを超えちゃうんですけど。

別勘定って事なんでしょうね
だとしても、この番所で待機しているのとほぼ同じ人数くらいしか、町中にいないって
バランス悪すぎるんじゃないだろうか

三つの番所の位置関係はこんな感じ

さあ、本丸のある広場まで、坂を頑張って上がっていきます。
この、坂を登るというのが重要です。
実は、江戸城って、山の手(武蔵野台地)の端っこに立っていて
東側と西側でかなり標高が違います。



本丸までが高くて、そこから西側がガンッと低い。
その差、実に標高20m
そもそも、この西側。皇居前広場や、丸の内辺りは、家康が江戸に入ってきた時は海で
家康が埋め立てた。

皇居の周りを走っている市民ランナーさん達は
走り安いから走っているんだとずっと思っておりましたが、逆だったのか。
過酷だから挑戦していたんですね。
すごいぞ。市民ランナー。

富士見櫓(ふじみやぐら)
その標高差を登って来ようという敵を、急激な石垣とその上の櫓で落とそうというのが富士見櫓

すごいです。お城みたいです。
巽櫓(たつみやぐら)や伏見櫓(ふしみやぐら)は二重櫓(二階建て)なので
現存する櫓で、三重櫓は富士見櫓だけ

江戸城って、明暦の大火(1653)の時点で丸焼けになり
火薬が置いてあった天守閣は大爆発。
江戸時代260年の内、最初の50年しか天守閣は無いんです。

天守閣焼失後、天守台の石垣までは再建したんだけど
老中格の保科正之が天守閣再建に反対
平和な時代になったのだから
今や天守閣の役割と言えば、眺めが良いということだけ。
であれば、富士見櫓だけ再建すれば良い。
その分のお金は城下の再建に回そう。

展望台
江戸城内の標高差が一番良く分かるのが、展望台
ここは、元、台所櫓という櫓が有った場所
高い方の端っこなので、展望台になります。


逆に下から展望台を見上げるとこんな感じ

あれっ?
さあ、ここから、本丸の表、中奥、大奥とイメージしていくぞ
ただ、原っぱしか無いけどね

ん?
以前来たとき、原っぱがただ広がっていた場所に
何やら神社的なものが。
でも、どうも近づけそうにない。

先に休憩所に行こう。

休憩所に入ると、ジオラマ模型が有った

あれ?
これってさっきの神社的なもの?
どうも大嘗宮(だいじょうきゅう)と言うらしい

何かの儀式をする場所

もう一度さっきの場所に行ってみよう

これ以上は近付けません。

だんだん言っていることが分かってきた

平たく言うとこういうこと
天皇の代替わりの時には大嘗祭(だいじょうさい)という儀式を行う。
今回は、11月の14日と15日
その儀式のためだけに、ジオラマにあったような大々的な神社を作る
そして終わったら壊す。

いやあ
全くこれを目的に来た訳じゃないのに
すごいものに出くわしました。
これだからウォーキングはやめられません。
私の年齢からして、大嘗宮なるものを目撃出来ることは二度と無いでしょう

松の廊下跡
柵がいっぱいあるので、ぐるっと回らないと行けません
ようやくついた松の廊下跡

さあ、いよいよ、天守台へ

あれ?
また柵が
警備のお兄さん

すみません
天守台へは行けないんですか?

はい。大嘗宮の工事をしておりまして。
11/14と15までは天守台へは行けません

ええっ

一回、納得したのですが
ちょっと心配になった。

実は今回江戸城に来たのはウォーキングイベントの下見
どうせなら、春と秋に行われる乾通り抜けという、一般公開の範囲が増える時期にイベントやりたいなと。
今年の秋の分は、まだ発表になっていないんだけど、例年だと12月初めの一週間

引き返して、警備のお兄さんに

しつこいようですみません。
11/14と15が過ぎれば、天守台には行けるんでしょうか。

行ける筈ですが、撤去にかかる日数の分は無理かも知れません。

11/14と15って一般の人は見学出来たりするんでしょうか

おそらく無理だと思います。

良く見ると、この青いところは入れない

困った。
イベントどうしよう。

そんな異例の年に予定通り乾通り抜けをするだろうか
するとして、その時に、本丸、天守台の多くの部分を見れないとすると
江戸城の全貌に迫る!というイベントにならない。

いや、そういう問題だろうか
乾通りなんて言っておる場合か
大嘗宮だよ大嘗宮

ネットで調べました。
平成の代替わりの時も大嘗宮を作って大嘗祭をやったようです。
その時は、そもそも皇居の東御苑は工事期間一切入れなかった。
今回は、遠目に見れるところまで近づけるので、随分親切になった。
平成の時は大嘗祭が終わったあと18日間、大嘗宮を一般公開し
そのあと壊した。

現時点で何の発表もございませんが
今回、より親切になっているわけだから
大嘗祭が終わったあと一般公開してくれるのでは無いでしょうか

と言うことで賭けに出ます。
大嘗宮を見るイベントを組む

さあ、どうでしょうか。

そのあと
皇居は見所は山ほどあるので、これきしの事ではへこたれません。
二の丸庭園とか色々回ったのですが
長くなりすぎたので、まるっと省略します。

おでかけマップ