[寺社建築]屋根材の話

[寺社建築] 斗栱はアートか
で、屋根を支える話はしましたので、今度は、屋根を葺く材料の話

茅葺
屋根を葺く材料の最初は草
草の種類が、だんだん、限定されていきます。

ひとつには稲藁
藁は稲を作る上で大量に排出されるゴミなので
何とか有効利用したい。
大量に使える物としては屋根が一番
でも、耐久性がいまいちでした。

「かや40年、麦わら15年、稲わら7年」と言われます。
茅には適度な油分があり、雨を弾きますが、
藁は水を吸う特性があって、耐久性に大きな差があるのです。

稲藁は、わらじやしめ縄、馬の餌などになっていきます。

茅(かや)とはススキの事です。
屋根材となるときだけ「かや」と呼び、生えている間はススキです。

桧皮(ひわだ)葺き、杮(こけら)葺き
桧皮葺きや杮葺きが開発されます。
桧皮(ひわだ)は桧(ひのき、檜とも)の皮を剥いだもの
形を整えて、ずらしながら、竹の釘で固定していきます。

神社の屋根に使われます。

杮(こけら)は、椹(さわら)や杉、栗の原木を板状にしたもの
桧皮に比べるとすっきりした見た目になるが、耐久性は劣る
桧皮葺きが35年に対して杮葺きは25年

書院、客殿、高級武家屋敷、数寄屋造などに貴族趣味的に用いられた
今は、指定文化財など、現状を変えてはならない建物にしか使われていない。

ちなみに杮(こけら)という漢字は柿(かき)とは似ていますが違います。
柿(かき)のつくりは、なべぶたに巾ですが
杮は上からしたまで突き抜けています。
左が杮(こけら)右が柿(かき)


仏教伝来とともに、中国から寺院が導入され
瓦が入ってきます。

何あれ、かっこいいっ

人々は魅了され、次々と寺院が建てられていきます

神社としては、内心「負けた」と思っているわけですが
認めるのは悔しい。
そこで、寺院の事を「瓦もん」と言って馬鹿にします。
瓦礫(がれき)とか瓦解(がかい)というように
マイナスイメージの言葉が残っているのはその影響でしょう。

ただ、神社には、教義も教えも哲学もお経のように紙に書かれた物もありません。
勝負にはなりません。
そこで、もともと別ジャンルのものと位置付け、共存共栄を図ろうとします。
神仏習合です。

そうなると、もともと内心かっこいいと思っている瓦も解禁です。
神社にも瓦葺きが登場していきます。

ウォーキングしていると、やっぱり半分以上、神社に瓦は使われていません。
桧皮葺きではないにしても、銅板なのか何らかの金属板で、桧皮葺き風にしてあります。

瓦以上に、すぐに取り入れられたのが屋根の反りだと思います。
それまでは、神社の屋根はまっすぐだったんですが
カーブするようになります。
今、神社の屋根は、流造りと言われる前側が長めの屋根が主流です。

神社や寺院以外の建物で瓦がどうだったかというと
ほとんど普及しませんでした。
そもそも、寺院以外で瓦が禁止されていたというのがあります。

とはいえ、瓦の有用性は明らかなので、宮殿や大規模な屋敷とかには使われます。
むしろ、寺院側が、瓦職人を抱え込み
実質的に他では作れないようにしたという面が強いかと思います。

なぜなら、寺は武力を持っていたからです。
一大武力勢力だった。

時の権力者たちは、しばしば寺の勢力に手を焼き
潰そうとしますが、瓦で頑丈に守られた寺は、防衛に優れていた訳です。

本瓦
江戸時代より前の瓦は本瓦と言われるものでした。

江戸時代が始まって、3分の1くらいが経った
延宝2(1674)年、近江大津の三井寺の用を勤めていた西村半兵衛が
桟瓦(さんがわら)という今のタイプの瓦を発明します。

大発明、大革命です。

基本的に一種類の瓦ですむようになりました。

大幅コストダウン

作り方も簡単で歩留まりは良く
木枠で大量生産が可能になった。
葺く時も、職人が高度な技術を必要としません。
重さも軽いので、建物に必要とされる強度も全然違います。
良いことづくめ
一気に瓦が一般住宅にまで普及していきます。

きのう、かねやすの話でも言いましたが
江戸時代の最初は一般住宅において瓦葺きが禁止されていた。
火事の時、壊すのに危ないという理由

8代将軍吉宗の時、方針の大転換
瓦屋根の耐火性により
瓦屋根も「苦しゅうない」とされた
本郷辺りを焼き尽くした享保の大火で復旧する家屋は
むしろ瓦葺きが推奨された。

その前に桟瓦が発明されたというのが大きい。

その効果が実証されたのでしょう。

11代将軍家斉の時は、逆に瓦葺き以外の建物の建築が禁止されています。

明治10(1877)年に、更なる技術革新が行われます。
引っ掛け桟瓦の開発です。
それまでは、屋根の上に土を塗って、瓦を固定していました。
葺土なしの乾葺が可能となり、瓦の下に棒を渡し、釘留めか銅線で結ぶ工法が確立する
さらに爆発的な普及。

日本の屋根は瓦屋根と言えるほどになります。
♪いらかの波と雲の波~

[神社仏閣]シリーズはこちら(少し下げてね)

本郷散策の続きの続き

フランス弁当と、本郷散策
本郷散策の続き
のそのまた続きです。

見返り坂

すごく時間がかかりました。
本当は、こういう案内板があるはず

かねやすの南側が見送り坂で、かねやすの北側が見返り坂

昔の刑罰は、結構死刑になるケースが多いんだけど
その次は禁固刑じゃないんです。
牢屋、今でいう刑務所は基本的には存在しない。
所払い。例えば江戸での犯罪であれば、江戸から追い払う。
絶対に江戸に帰って来ちゃダメ
重罪人であろうとも、江戸にいなきゃ良いやと言う何とも自分勝手な考え方。
小伝馬町にあった牢屋は、今で言うところの留置所
まだ刑が確定しない未決囚を確保しておくところ

所払いになった罪人をかねやすの手前まで家族が見送って見送り坂
そのあと、もう会えない家族の事を何度も見返り、見返り坂

でも、グーグルマップでは「見返り坂」ってあるのに案内板がその場所にない
グーグルマップに写真は上がっているので、少なくとも過去にあったことは間違いない。
何度も行ったり来たり
結局見つけられなかった。
上がっている写真は全て2年前のもの
なくなったのかなあ

菊坂

この辺り一面、菊畑だった。
団子坂の菊人形も近いしね

下級武士って可哀想。
特に長男じゃなく、次男以降
暮らしていけるほどの給料はもらえない。
でも働きに出るのは、武士としての世間体がある
土地はある。有り余るほどの暇もある。
植物を育てるんです。
江戸は、時代によって色んな植物がブームになる
朝顔だったり、かきつばただったり。
この辺りは菊だったんですね。

本妙寺
えっ、えええっ、本妙寺?
江戸の6割を焼け野原にした、最大の大火、明暦の大火の火元。

今は巣鴨にあり、どこかから移転したのは知っていたんだけど
まさかここだったとは
こんな重要な場所が案内板半分だけ?
よほど文京区はこの事に触れたくなかったんでしょうね。
江戸時代はずっとこの場所で、明治になってから、巣鴨に移転
明暦の大火については、こちら
振り袖火事と八百屋お七、ああ哀しき16歳

しかも、その横にこれまた予期せぬ案内板
第4校
うおおおっ
湯島小学校だと思っていたら、その前になななんと、本妙寺だったとは。
どういう意味かというと
明治5年に学制改革で、一斉にどっと小学校が出来るんだけど
試験的になのか、その前に、東京に6つの小学校が出来ていた。
その中の第4校がここだってこと。
  第一校 芝 増上寺源流院 (のちの鞆絵小学校)
  第二校 市ヶ谷 洞雲寺 (番町小学校)
  第三校 牛込 万昌院 (愛日小学校)
  第四校 本郷 本妙寺 (湯島小学校)
  第五校 浅草 西福寺 (育英小学校)
  第六校 深川 長慶寺 (深川小学校)

ちゃんと本妙寺って書いてあるね。失礼しました。

本郷座跡

大人気だった演芸場
さっきの文京ふるさと歴史館に模型がありました。

川上音二郎一座って書いてありますね
川上音二郎と言えばオッペケペー節
♪オッペケペー オッペケペッポー ペッポッポー

若竹亭跡

こちらも文京ふるさと歴史館で解説されていました。
落語と義太夫。
特に義太夫の豊竹呂昇(とよたけろしょう)は大人気
見せ場には「どうする、どうする」と掛け声をかける熱狂的なファンが通いつめた。

トーキョーワンダーサイト本郷
文京区立本郷給水所公苑の隣の「トーキョーワンダーサイト本郷」という場所に
GoogleMapの行ってみたい、のマークがついている
もちろん自分で付けたわけだけど、どうしてもその理由が思い出せない。
覚えておけるように、マークにちょこっとずつメモを書いたりしているんだけど
ここに関してはそのメモもない
行ってみるか。

来てみたんだけど、やっぱり良く分からない
何だか怪しい雰囲気
無料、という文字は見えたので入っても良さそうなんだけど
やっぱりやめとこう

次へ向かったんだけどやっぱり気になって引き返した。

あのう、済みません。入ってもよろしいんでしょうか。

ご予約の方ですか?

いえ

それでは、こちらにお名前を記入いただけますでしょうか
1階から3階までが展示になっています。

はいぃ

1階
なるほどそういうことね
アートでした。




久木田 茜|KUKITA Akane
「シンメトリーのひずみ」
陶芸や金工などの手工芸を軸に制作する久木田は、合理的な形に、手作業によって形成される不合理な歪みを内包させる。この相反する行為とその結果から、人工と生命の間の表現を目指している。一貫して「シンメトリー」という存在を問いかけながら、装飾や植物の断片のイメージから幾何学的なイメージの制作を続ける。本展では、陶や真鍮を用いた立体作品を展示する。

なるほど、そう来たか

2階は映像で撮影不能だったので飛ばして

3階




辻 梨絵子|TSUJI Rieko
「ルリジサの茶」
古来より食すと鋭気を保つことができると言われ、お茶にして人々に好まれてきたハーブ、ルリジサ。辻は、青い星型の花を咲かせるこの植物を栽培し、さまざまな手法で作品に展開する。手作りのハーブティーを国内外の知人と飲みながら交わした対話から、他者の過去の出来事を紐解いてゆくドキュメンタリー映像作品や、花の色素を用いたドローイングなどでインスタレーションを構成する。

ふむふむ

いつもは、十一面観音きたぁーっ、とか言っている初老のおじさん。
たまにはこういうのでリフレッシュするのも良いでしょう。

実は、今まで内緒にしていましたが、こういうの好きです。
一番好きな画家がミロで次がピカソでさらに次がダリってくらいですから
芸術は訳が分からなければ分からないほど心に刺さります。

忠弥坂
4代将軍家綱の時、クーデターを由井正雪とともに起こした丸橋忠弥
捕まったのがこの坂です

待てとおとどめなされしは~

実は、毎週のようにお出掛けしているのはカミさんには内緒でこっそり出て行っています。
ウォーキングイベントの時だけは行っていますが。

今日は分かっちゃっているので、ご機嫌取るために、カミさんの好物のどら焼きを買っていきましょう。

[お出掛け]シリーズはこちら(少し下げてね)

本郷散策の続き

フランス弁当と、本郷散策
の続きです。

喜之床旧跡
石川啄木が2年間住んだ場所
盛岡から、同じ学校の先輩金田一京介を頼って上京し、下宿させてもらう。
そのあと、蓋平館別荘に移り、朝日新聞校正係に就職も出来た
その後、この喜之床という散髪屋さんの2階に引っ越す
あまり良いことはなかった。
家族のゴタゴタが続き、家族の病気、自身の病気

最終的にこの前行った小石川の終焉の地へ移る

はたらけどはたらけど、の句は喜之床での作

今も散髪屋さん、理容アライなんです。

かにかくに 渋民村は恋しかり
おもいでの山 おもいでの川

かねやす
本郷も かねやすまでは 江戸の内

兼康祐悦という歯医者さんが住んでおり、かねやすという小間物屋があった。

江戸や明治を考えるに当たって、この「かねやす」は色んな興味深い問題を提起してくれる。

資料によって書かれていることがまちまちなのだけれど
総合して考えるとこんな感じ
芝と本郷に兼康家があった。
どっちが本家でどっちが分家かは不明。
おそらくどっちも歯医者さん

乳香散という歯磨粉を売り始め、大ヒット
キャッチフレーズは
この薬をもって磨く時は、その白さ銀を敷くる如く、一生口中歯の憂なし

歯磨き粉の事を「かねやす」と呼ぶようになるほど

こりゃ歯医者やっている場合じゃない
これをきっかけに小間物屋に転じ、商売を大きく広げる

江戸の人の歯磨きに対する熱意ってものすごく
浅草の仲見世の歯ブラシ屋さんだらけ
虫歯に対する治療方法は、江戸末期まで全くなく
塩茄子を噛んで我慢するしかなかったからです。

文京ふるさと歴史館でかねやすの事が色々出ていました。

こっちは明治のカネヤス
明治のお洒落アイテム洋傘を、晴れているのにさしている人がいるのが微笑ましい。

大したもんだと思うのが、景品なのか販促品なのか、すごろくを出していること。
しかも二種類
すごろくはこれまた大ヒット商品なので
本郷名所すごろく。洋館がずらっと並んでいるので、洋館は大人気だったんでしょう。

扱い商品すごろく。あがりのひとつ手前が歯磨き粉というのが良いです。

こうなってくると、芝と本郷で権利争いが発生します。
こっちが最初だ、どうのこうの
裁いたのが大岡越前守忠相

芝が「兼康」本郷が「かねやす」
一件落着
♪ルールールルルルルー

その大岡越前が、大火が耐えない江戸において奨励したのが塗屋・土蔵造り
屋根は茅葺きを禁じ、瓦で葺くことを許した
享保15(1730)年、大火で本郷辺りまで丸焼けになったんだけど
復興における建て直しではそうしなさい。

その影響で、中山道を歩くと、かねやす辺りまでは、瓦葺きの屋根が目立つのに
それを過ぎると、田舎風の茅葺きの家なみに急に変わる
本郷も かねやすまでは 江戸の内
というのは、そういう川柳

ここで注目されるのが瓦屋根
江戸も初期には瓦屋根ってほとんど存在しない。
瓦屋根って寺だけで、住宅ではダメ
江戸の消防って、ポンプがないため、水をかけるという方法は、初期消火でしかなく
類焼を防ぐために、近くの家を壊すという荒っぽいもの

その時、瓦屋根だと壊す時、瓦が落ちてきて危ない。

この方針が、瓦の方が燃えにくいと、180度転換したことになります。

江戸時代の町並みのジオラマを見るとき
瓦屋根かどうかをいつも注目しています。

これには背景があります。
延宝2(1674)年、近江大津の三井寺の用を勤めていた西村半兵衛が
桟瓦(さんがわら)という今のタイプの瓦を発明します。
それまでは本瓦
この話、長くなるので、詳しくは寺社建築シリーズに譲りますが
大発明で、コストが激減します。

大岡越前が何と言おうが、この大発明がなければ
そんなもん無理なもんは無理、だったのが
良いっすよ。瓦屋根かっこいいし、ってなれた訳です。

本郷薬師


源頼朝の時代からこの地に、小さな薬師堂がありました。
時代は下って、江戸の4代将軍家綱の時、家綱や藤堂高虎の肝煎りで薬師堂が再建されました。

その時、疫病、今でいうマラリアが大流行
薬師様からのお告げが言い渡されます。

草藪を焼き払い、どぶ掃除をして、天水桶の水も取り替えなさい
薬師を拝み、どんどん線香を炊きなさい。

おお、よく分からんが有り難き薬師様のお告げとばかり
みんながその通りにしました。

すると、おそらく藪蚊が退治されたんだと思いますが
マラリアがおさまっていったのです。

さすがは薬師様、有り難や有り難や

薬師様なのか、お告げを伝えた人なのか
かなり科学的にちゃんと考えての事です
信仰というのは、みんながその通りにするということで
方法が正しいときには絶大なる威力を発揮するんだなと
改めて考えさせられます。

薬師如来かと思いきや、十一面観音がありました。

すみません。かねやすで長くなりすぎました。
まだ続きます。
続きは明日ね

[おでかけ]シリーズはこちら(少し下げてね)

フランス弁当と、本郷散策

週末ですがカミさんがいるので出かけられません。
ホットカーペットを仕舞って、ゴザを出す夏向けへの模様替え

テキパキ終えてすっきり。

お昼さあ、フランス料理屋から弁当とってみようか

最寄りの清瀬駅の近くにフランス料理屋さんがあります。
こういうの見つけてくるのは、カミさんは天才的です。

以前家族で一度行きました。
私以外の家族ではさらに何度か行ったらしいです。

地元の野菜を使っていて、
これは誰々さんが作ったニンジンを使った何とか風何とかでございます。

そのフランス料理屋さんが、数ヵ月前からお弁当のテイクアウトを始めました。

今どこも大変です。
助けてあげなきゃ

肉のボックスと魚のボックス一つずつと、スープもつけました。

ほれっ

ほれほれっ




スープ

せっかくのフランス料理なので、お皿を出して綺麗に並べようかと思いましたら

やめてよお。そのまま捨てられるから良いんでしょ

私は魚、カミさんが肉で1個ずつ交換

肉むちゃくちゃ柔らかかった。

スープは蕪(かぶ)のスープ

どれも美味しかったなあ

おでかけ
散歩行きたいんでしょ

まあね

良いよ

って事で
行ってきまーす

午後からだから短目
特に考えずに出発したので、電車の中でどこへ行こうか検討
そういうときは緑潰しです。
色々本を読んで行きたいところを、グーグルマップでマークしてあります。
「行ってみたい」にチェックを入れると地図に緑色でマークされます。

ええっと、緑が比較的集まっているのは?
本郷行ってみよう。

後楽園から
後楽園スタートで

講道館
嘉納治五郎先生ーっ

えっ、何でまた正力松太郎

調べると、正力松太郎って講道館十段だったんですね

右京山
文京区はとっても坂が多い
鐙坂からグッと上がっていくのと、右京山と呼ばれている高台になります。

高崎藩主大河内松平右京亮の中屋敷だったので。
戦時中以前は陸軍があり、赤紙は全てこの場所から発信されていました。

金田一京介・春彦旧居跡

樋口一葉旧居跡の井戸

坪内逍遙邸跡碑
坪内逍遙がこの場に住んでおり
引っ越した後に同じ場所に正岡子規も住みます。
手塚治虫と藤子不二雄の関係のようです。

炭団坂(たどんざか)
あまりに急で、雨の日はぬかるんで滑りやすく、
転ぶと下まで転げ落ちて真っ黒になるので炭団坂

坪内逍遙、正岡子規も炭団になったことがあるでしょう。

文京ふるさと歴史館
ようやく各23区の郷土資料館も開き出しました。
文京区はまだ来たことなかったんです。

どの区の郷土資料館も、一度入るととても時間がかかるので大変。
さあ、頑張るぞ

まずは、どの区の郷土資料館も出土した土器から
文京区は何と言っても名付け親
東大の横の弥生町から、弥生式土器と、
さらに縄文時代の次の弥生時代という時代の名前まで
文京区弥生町からなので、鼻高々です。

江戸時代は、火消しの話、大名屋敷の話、色んな商売の話
かねやすの話は、このあと行くのでそこでじっくりと

感激したのが、小石川養生所の模型

キリシタン屋敷の見取図
シドッチはどこにいたのかなあ

小学校の女の子二人組が、色んなところで
一生懸命絵を書き写していました。

覗き込むと、富士講も。
この次期から富士講の研究をしているなんてなんて渋い
絶対この二人は将来学者になるでしょう。

団子坂の菊人形のジオラマ

こんなに賑わっていたのか
江戸の人はほんとに遊ぶことが大好きだっんだなあ

駒込の土物店(つちものだな)のジオラマも素晴らしかった。
土物店とは青物市場なんだけど、特に大根やこぼうなど、
土の付いた根菜類を多く扱ったことによります。

昌平坂学問所の模型も素晴らしかったんだけど
ガラスに光が映り混んでうまく撮れませんでした

堤真一演じる平岡円四郎もここで学びました。

本郷座、若竹亭についてはこのあと行くのでそこでね

あとは、文学者ね
文京区は文学者だらけ

ウォーキングはこのあとも続きます。
続きは明日ね

[おでかけ]シリーズはこちら(少し下げてね)