[神社]日本誕生のその前

神社シリーズ、ここから古事記日本書紀に登場する神様を順を追ってまいります

最初は、イザナキとイザナミだよね
ここから日本が産まれ
いえいえ、その前にまだあるんです。

造化三神
「古事記」において、天地初発(世界の始まり)の際に出現したとされる3柱の神様たちを、造化三神といいます。

造化三神の中で最初に現れたのは、アメノミナカヌシノカミ(天之御中主)です。

じつはこの神様については、どんなはたらきをしたのか、いっさい記されていません。

『天地が初めておこった時、高天原に成りました神の名は天之御中主神(アメノミナカヌシ)
次に高御産巣日神(タカミムスヒ)、次に神産巣日神(カムムスヒ)、
この三柱の神はいずれも独神(ひとりかみ)として成り、身を隠されました。』

はい、これで終わりです。

具体的なことが何も書かれていないために、かえって「アメノミナカヌシが最も超越的で、一番偉いのではないか」という想像をかき立てもしました。

中世以降、神道を体系的に理論化しようという動きが起こると、伊勢神宮から生まれた伊勢神道や、江戸時代後期の復古神道では、アメノミナカヌシは世界の最高神とみなされました。

また、「天の中心にいる主人」を意味する「天之御中主」という名から、夜空の中心の北極星(あるいは北斗七星)が神格化された仏である妙見菩薩と習合しています。

次の二人はそのあとも登場することはあるのですが、アメノミナカヌシはほんとにこれだけ

次に現れたのが、タカミムスビノカミ(高御産巣日)とカミムスビノカミ(神産巣日)です。
ムスビという言葉は生成(生み出すこと)のはたらきを意味します。

彼らは、表舞台で派手にふるまいはしないものの、
国造りのプロジェクトを導き補助する、フィクサー的な役割を果たしました。

タカミムスビはおもに天上界(高天原)を担当し、
アマテラスオオミカミとともに天孫降臨を指導しました。

カミムスビは、地上界(葦原中国)で活躍する神々を助けています。

スサノオにオオゲツヒメが斬られた時に、
オオゲツヒメの体かが生えて来た種を採取したのが神産巣日神です。

神産巣日神はスサノオにオオゲツヒメの体から手に入れた種を与えて、
スサノオが地上で穀物を拡げたとする説もあります。

神産巣日神は「出雲の国譲り」で、大国主神(オオクニヌシ)の話などにも登場します。

殺されてしまった大国主神の復活に一役買っていたりもします

神産巣日神は地の生産を意味する創造の神で
男女の結びの女性を象徴する神だとも考えられています。

この2柱は一対の神であり、
平安時代中期には、男女ひと組の神として扱われる場合もありました。
この三柱の神はいずれも独神(ひとりかみ)として成り、と書いてあるので
結婚はしていない。
そもそも、性別がないはずなのですが
並べて書いてあって、両方に「ムスビ」があるので、勘ぐってしまうわけです。

東京でいうと飯田橋にある東京大神宮が造化三神を祀っています。

縁結びで超有名
行くと若くてきれいな女性がわんさかいるのでビックリします
後の大正天皇の結婚式が行われた場所で、それ以降、神前結婚式というものが始まったからです
東京大神宮では、間違っても「造化三神は独神なんですけど」なんてな事は言ってはいけません

[神社]シリーズはこちら(少し下げてね)

[足利将軍]1-4 足利尊氏。第三幕は決定的

[足利将軍]1 足利尊氏。悪い奴にされちゃうの?
[足利将軍]1-2 足利尊氏。とらえどころの難しい人物像
[足利将軍]1-3 足利尊氏。第二幕で大敗北
の続きです。

足利尊氏としては、すったもんだはあったものの、ひょっとすると「思惑通り」に事が進み
高師直を排除し
優秀な弟直義(ただよし)に基盤を固めてもらった上で、息子の義詮(よしあきら)にバトンタッチ

うまい具合に行ったぞ
あともう少し、直義にサポートしてもらえれば
義詮も強力な体制を築ける事だろう

ところが、残念な事にそうはいかなかった。

尊氏と直義の本格的な対立が起きてしまう。
悲しむべき第三幕の始まりです。

おそらく子供可愛さ

義詮は当初は右も左も分からないので、おじさんの直義に頼りっきり
超優秀なおじさんなので学ぶべき事はいっぱいあります。

でも、成長につれ、慣れてもくるし
自信も湧いてくる
そろそろ一本立ち出来るんじゃないか
自分なりの考え方ややり方が芽生えてくる

おじさん邪魔

目一杯お世話になったんだからそれはないでしょ、と思うんだけど
お父さんの尊氏にあることないことチクります

ここで、尊氏も頑として
それは違うよ、あきちゃん。って諭すべきなんだけど
尊氏はそういうところがちと弱い

そうか、それはけしからん

家臣団も、高師直と直義の対立の頃に派閥が出来ちゃっているので
反直義の派閥は、よし今度は義詮を担ぎ、それそれとけしかける

今度は今までとは訳が違う
ツートップの決裂
プロレスでいうと、ジャイアント馬場とアントニオ猪木の対立

空気を察した直義
また先回りして、政務を辞した

なのに
尊氏は南朝に通じた佐々木道誉を討つと称して、近江に出陣する。
同じ日、義詮も播磨平定のためという名目で、軍勢を京都の南の関門の東寺に集めた。
要するに彼らは、京都にとり残された直義を東西から挟撃し、その息の根をとめようとはかった

えっ、せっかく誠意を見せたつもりなのにそう出るのね
それなら、こっちも考え方を変えさせてもらおうか
京都を脱した直義は、元々地盤の強い北陸に向かう
金が崎城
そう、十数年前に新田義貞が立てこもり、死闘を繰り広げた地
金が崎城を中心にどんどん勢力拡大

まずいと認識した尊氏は使者の細川顕氏を送って
戻っておいで

その手には乗りません

なんと、細川顕氏はそのまま、直義陣営に寝返ってしまいます。

尊氏の面目丸潰れ
よっしゃ、そうくるなら
コテンパンに叩きのめしてやろう

尊氏がとった丸パクリ作戦
かつての直義の奇策、南朝との和睦です

南朝としても、またかいな、なので強気に出る
前回の和睦の時よりかなり南朝がわに有利なもの
それでも和睦が成立

準備万端の尊氏は戦闘開始
初戦は尊氏の勝利
和睦の機運が高まるも
条件が合わず不成立

直義は鎌倉へ逃れる事になる

追う尊氏と鎌倉で戦い、直義軍大敗

やはり直接戦うとなると、尊氏は一枚も二枚も上手だった
直義降伏

ほぼ牢屋のような屋敷に閉じ込められて二月ほど
その中で直義は原因不明の死を遂げる
黄疸ということにはなっているのだが・・
2月26日。その日は高師直兄弟が死んだちょうど1年後だった。

色々な犠牲は払ったが
これでようやく、尊氏義詮の体制

ところが、ちょうどその頃
すでに別のとんでもない誤算に見舞われていた

[日本の歴史]シリーズはこちら(少し下げてね)

[迷信] 厄年に厄除け

「厄年」
災難にあいやすいので何事も慎み深く、用心して過ごさなければならないとされている年齢

厄年には神社やお寺で厄払いをしてもらうのが慣例だが、平安時代から行われていたとされる。

もとは陰陽五行説からきているという説があるが、たしかな根拠はなく、
なぜこのような慣例が生まれたかは謎である。

現在よりも平均寿命が短く、医学も発達していなかった時代には、
人生の節目で自分の健康や生き方を振り返るという
自戒の念を起こすための区切りの儀礼のようなものだったと思われる。

そう考えると、平均寿命が延びて、医学も発達した 現代社会においては、
厄年の年齢が現実と合致していないのではないか。

ちなみに、令和元年の平均寿命は男が81歳、女性が87歳となっている。

昔の平均寿命はいくつぐらい?

明治〜大正時代で44歳前後、
江戸時代はおおむね30~40歳といわれている。
統計数字は残っていないから、ばくっと

現代とはずいぶん違うの心身の健康を見直す年齢も変わってくるはずだ。

たとえば、現代人の死因のベスト3はがん、心疾患、脳血管疾患(脳卒中)だが、
がんでいうと、女性は30歳を超えた辺りから緩やかに増えるのに対して
男性では50歳を増えると急激に増えてくる

現代版の新しい厄年が必要かも知れない

寿命自体は劇的に伸びているが
病気にかからない訳ではない

臓器一つ一つに耐用年数はある

たとえば、肺は20歳を過ぎると少しずつ衰えていき、70歳を過ぎると肺活量は20歳の頃の半分になる。

心臓の寿命は、心拍数と関係があると考えられている。20~23億回で寿命がくる。
だから、心拍数がゆっくりの人のほうが長生きするということになる。
ただし、このことがそのまま寿命に影響するわけではなく、
寿命にはほかのいろいろな要因が関係している。

逆に肝臓は老化しない臓器といわれる。
肝細胞再生能力が優れていて、70歳になっても、
その機能は若い頃とほとんど変わらない。
肝臓を切除する手術があるが、7割を切除しても半年ほどでもとの大きさに戻る。

あくまでも、これらは平均的な話
ひとりひとり当然違う

「厄年」が一番意味を持つのは
一般的平均的に注意すべき節目、というのを意識しつつ
その時に、自分の体と会話する事かも知れない

毎年健康診断を受けているとすると
毎年を厄年ととらえても良いのかも知れない

もうひとつ
健康以外の意味もある気がする
人生の節目

仕事だったり家庭だったり
節目で今までを振り返り
さあ、今後の人生をどうしていこうか、という計画

神社やお寺での厄除けは
今までと違った非日常的な体験をするわけだから
気持ちの切り替えには効果がある気がする

[迷信]シリーズはこちら(少し下げてね)

[ことば日本史] 判官びいき

源義経は、法華経を読みおえると、北の方(妻)の親である兼房にいった。
「どうやら、自害すべきときがきたようだ。自害とは、どのようにすべきものなのか」

「都で佐藤兵衛が自害したときには、評判が高く後々までめられておりましたな」

「ああ、それなら、わけはない。きず口が広いのがよいということだな」

義経は、幼い頃から守り刀として差してきた名刀を握り、
左の乳の下から、背中までも
突き通れとばかりに突きたて、
刀をまわして口を掻き破り、存分にはらわたを抉り出してから、
刀を服の袖でぬぐい、膝の下にかくして、脇息にもたれた。

それから北の方を呼んで、故郷へ帰るように告げた。
だが北の方は、自害を望み、養父としての情に断る兼房に無理やり、刀を立てさせた。

そこへ五つになった若君がやってきて、両親が死出の山を越えて黄泉へ行ったと聞くと、
わけもわからぬまま、自分も死出の山へ連れてゆけとせがむ。

いかんともしがたく兼房は、刺した。

そして、まだ生後七日の姫君も、刺した。

若君の亡骸を義経の衣の下に。
姫君の亡骸を母の衣の下に。

このとき義経には、まだ息があり意識が戻った。

「北の方はどうした」

「自害されました。お側におられます」

「これは誰だ」
手探りして尋ねた。

「若君でございます」

義経は、北の方へと手をのばし、すがりついた。
これが最期の言葉だった。

「はやく屋敷に火をかける。敵が近づくぞ」

皆を見送った兼房は、走り回って屋敷に火をかけた。
ごうごうと燃え上がる火炎にむせびながら、兼房は最期のひと暴れとばかり、
油断していた敵を一人、馬からひきずり下ろし、脇にはさみこんだ。

「一人で越えねばならぬ死出の山だが、供をしてくれ」

道連れを抱えたまま、炎のなかへと飛び込んでいった。

平家との戦いでは大活躍したにもかかわらず、
頼朝に追われて衣川に非業の死をとげた義経は、
同情を誘う悲劇のヒーローである。

義経は、検非違使の時、すなわち「判官(ほうがん はんがん)」と
呼ばれる位にあったことから、義経に対する同情、

ひいては立場の弱い者に味方する心情は、
「判官びいき」と呼ばれるようになった。

このような弱さに対する偏愛は、日本人の一種の美意識。
あるなあ。

弱いものに対して、頑張れ、っていうのは自然に生まれてくる感情なので
実は世界共通のものらしいけど
ことばの影響って大きいですね

「判官びいき」ということばが存在するがゆえ
そしてそれが日本人に共通しているのだというイメージは
やはり、自分の感情を納得させやすいので
結果として、日本人にその傾向が強くなっていると思う。

[言葉]シリーズはこちら(少し下げてね)