神楽坂のおさらい

台風19号でご心配おかけしましたが
結局あのあと何事もなく、避難所への避難もしませんでした。
家族全員変わらずです。
ご心配いただき、ありがとうございました。

さあ3連休。まだ残っております。

少し前に、神楽坂に行ってきました
神楽坂で粋に浸る
神楽坂で粋に浸る、の続き

その後、図書館で「神楽坂がまるごとわかる本」というのを借りて読みました。
一冊丸々神楽坂に関することで、
著者はよほど神楽坂が好きなんだなあ、とよく分かります。
無茶苦茶詳しいし、一つ一つの話がとても面白い。

来週末に神楽坂のウォーキングイベントをやります。

神楽坂のおさらいをするとしましょう。

家光
神楽坂って、江戸時代から栄えていたんですが
何故かというと、3代将軍家光に気に入られていたから。
何と150回も往き来している

栄えたといっても、地域的に武家地
武家屋敷が並んでいる場所です。
坂の上に、酒井忠勝の屋敷があったから
家光は、酒井忠勝と松平信綱に全幅の信頼を寄せている。

まだ将軍になる前、次期将軍として江戸城西の丸にいた頃
西の丸が火災で焼失し、立て替えるまでの間
70日もの間、神楽坂上の酒井忠勝の屋敷に厄介になります。

その時、屋敷の周りを竹矢来で固め
昼夜、家臣が警備して、お守りした。

以来、屋敷の辺りを矢来町と呼ぶようになります。

牡丹屋敷
神楽坂の入口のかど

スターバックスコーヒーのように見えますが
江戸時代は、実は、スターバックスではありませんでした。

牡丹屋敷と呼ばれています。
今度は、8代将軍吉宗の時代。
徳川宗家の血が途絶えたので、御三家は紀州から吉宗が呼ばれます。

周り知らない人ばかりは、気を使うので、
紀州時代に身の回りの世話を良くしてくれた部下達を連れていこうとします。

岡本彦右衛門は、
私は今もそうなんですが、牡丹の栽培が好きでしてね
南向きの斜面で日当たりよく、でも西日の当たらないお屋敷をもらえるなら
そこで牡丹の商売をしたいなあ
近くに、潮風の影響のない水辺があるとベスト

分かったよ

ということで与えられた一等地
手広く牡丹の商売をします。
薬草も栽培し、江戸城の医療面は大きく担当します。

同じく、江戸に連れてこられたのは、紀ノ国屋善兵衛
口入れ屋という今で言う人材紹介業です
神楽坂の近くで商売を始めるが
同郷のよしみで、牡丹屋敷の岡本彦右衛門と仲良くなります。
牡丹の商売はかなり手広くやっていたので
人材がいっぱい必要です。

専属でやらせてもらうことになり、商売繁盛
牡丹屋敷の近くに引っ越しして来ます。

ところが、牡丹屋敷が突然営業停止を言い渡されます。
理由は不明
薬を扱っていると言うことは
うまく治らなくて重要人物が死んじゃったとか、色々あったかも知れません。

その後、屋敷の主は色々入れ替わりますが
牡丹屋敷という名前は踏襲されました。

一方の、紀ノ国屋善兵衛
大口顧客を突然失いましたので、経営の危機
ここを何とか乗り越え、江戸時代いっぱい続きます。
ところが、明治維新で失業。
今度は、全ての顧客が消えてなくなりましたので。

仕方なく、紀の善という屋号で寿司屋に転業。
宮内庁御用達にもなれ、名だたる有名人のひいきになります。

ところが戦争。
米もなくなり、寿司どころではありません。
ずっと開店休業状態
そして、戦後
甘いものが超貴重品
それを逆手にとって汁粉屋を始めると、これが大当たり。
神楽坂を訪れたことのある女性なら絶対に知っている、紀の善でございます。

逆転一方通行

神楽坂通りで、日本で唯一認められていることがあります。
逆転一方通行。
午前中は坂を下る方向の一方通行
午後は坂を上る方向の一方通行

最初、対面通行だったんですが
歩道もなく、歩行者が危険だったので、歩道を設けた。
一方通行にせざるを得ず、下り方向の一方通行にした。
車が店に突っ込む事故がたまたま発生し
下りは危ないと、上りの一方通行に変更
今度は、飯田橋の五叉路や大久保通りの渋滞はこの一方通行に原因ありとやり玉に上がる
苦肉の作で、時間による逆転方式

丁度その時が田中角栄の時だったから、
田中角栄が自分の国会議事堂への通勤に都合が良いからだと
とりざたされたりもしています。

相馬屋
さっきの紀の善もそうですが、神楽坂では、古くからの創業の店がとても多い。
その中でもぶっちぎりに古いのが、相馬屋
江戸時代の初期、万治2(1659)年です。

いつ行っても閉まっているんですが
ホームページではちゃんと手広くやっているので、
商売がら企業相手で、平日のみオープンなのかも知れません。

初代が、手漉きの紙漉き和紙の製造を始めます。
紙漉源四良(かみすきげんしろう)を名乗ります。
3代目から、相馬屋源四郎(そうまやげんしろう)を代々名乗ることになります。

江戸城にも納品する、紙の大店問屋(おおだなどんや)に発展していきます。
近所に住んでいる、狂歌の第一人者、太田南畝(おおたなんぼ)は相馬屋の主人と仲良し
店に入り浸りです。

明治になると政府から、西洋紙の製作を依頼され
原稿用紙を手掛けます。
宮内庁御用達に。
これまた近所に住んでいる、尾崎紅葉はこだわりが強いので
あれやこれやと改善要望
対応していく度に、どんどん良い原稿用紙になります。

評判が評判を呼び
一流の作家達がこぞって使うようになり
相馬屋の原稿用紙を使うことが、一流文士の証、みたいになっていきます。

先日、小石川七福神でのお出掛けの中で
石川啄木の終焉の地で
最後の短歌が、原稿用紙に書かれた自筆の碑になっていて
その原稿用紙が相馬屋のものだと知って大興奮したのは、この事があったからです。
小石川七福神巡り。その1

長くなりました。
続きは明日ね

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神楽坂のおさらい」への3件のフィードバック

  1. ピンバック: 神楽坂のおさらい。その2 | でーこんのあちこちコラム

  2. ピンバック: 神楽坂のおさらい。その3。だらだら長者の埋蔵金と、化け猫フェスティバル | でーこんのあちこちコラム

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