[明治]大山巌。ちゃっかり「いわお」

明治シリーズ兼元老シリーズ

大山巌(いわお)

西郷隆盛、西郷従道のいとこになります。従って、薩摩藩出身です。

会津戦争では、薩摩藩の新式銃隊を率いて、二番砲兵隊長として戦う。
その時、会津若松城に山川捨松(すてまつ)も籠城
変な名前ですが、女性。その時は少女です。
後の大山捨松。奥さんです。
この時は、大砲を撃ち込んでくる憎き敵
少女捨松の役目は、大砲が爆発しきれずくすぶっている玉を
せーの、で濡れ布団を被せ、爆発しないようにする「焼き玉押さえ」

この敵味方の二人が、どうひっくり返って結婚に至るのか
捨松の生涯はあまりにドラマチックなので、一回じゃとてもとても
過去に2回に渡り、大山捨松について書きましたのでそっちを見てね
鹿鳴館のヒロイン大山捨松
鹿鳴館のヒロイン、大山捨松。続き

大山巌(いわお)
改めまして、今回の主役は旦那の方、巌(いわお)さん

終始、軍隊、それも陸軍と関係が深い
幕末、会津戦争で大砲を会津若松城に撃ち込んだ話はしましたが
その後、兵器をもっと改良せねば、と考え
欧米製のものを改良した「弥助砲」を考案しています。
大山巌は、その時の名前が「弥助」でした。

明治維新になって近代的軍隊の必要性を痛感し
明治2年に、欧州に留学している
帰ってきてから東京に出て、軍隊を作ります。

国歌
その時、横浜にいたフェントンさんに色々指導を仰ぎます。
フェントンさんは、軍楽団を率いています。

日本にも、国歌が必要です。
歌詞を書いてくれれば、私が作曲しましょうか

ほんまに? 悪いねえ

色々考えたあげく
薩摩琵琶の中の歌で自分が一番好きなの
君が代は 千代に八千代に さざれ石の 巌(いわお)となりて 苔のむすまで

これなんてどう?

フェントンさんが作曲した国歌が、
明治3年に横浜妙香寺において薩摩バンドによって演奏されました。
ただ、メロディ―が洋風であり日本人に馴染みにくかったため普及しませんでした。
宮内省式部寮雅楽課の林広守がメロディを作り替えちゃいますが
歌詞はそのまま残ります。

一番好きな短歌を国歌にすることに成功しました。
大山弥助は、そのあと、大山巌(いわお)と名前を変えます。

やりましたね。
こっそり、ちゃっかり、国歌の歌詞を自分の名前にしちゃった訳です。
これだけでも、人生大成功です。

その後、2回も留学して、軍隊の事をみっちり勉強。

あるとき、帰国してくれと要請されます。

征韓論で下野し、薩摩に帰った西郷隆盛がおかしな動きをしている
説得出来るのは君しかいない

小さい頃から一緒に育ち、弥助どんと可愛がられていた。

薩摩に向かい、1ヵ月にも及んで説得
ただ、隆盛の決心は変わらなかった。

ならば、おいの命、兄さぁにお預けします。

ならん。断じてならん。
帰れ。東京に帰れ。

巌は、軍隊なので
西南戦争の制圧に直接赴くことになります。

こんなことのために軍隊を作ったんじゃない
兄さぁ

そして、隆盛自決

首実験では、決して見ようとしませんでした。

陸軍大臣
伊藤博文内閣の時に、陸軍大臣となり、
陸の大山、海の東郷、と呼ばれる。

日清戦争、日露戦争を勝利に導く。

一言で言うと人徳
まるで西郷隆盛が指揮しているようだった。
例えば参謀次長の児玉源太郎に対して、徹底して任せる
ただ、何かあれば全て自分が責任を取った。

秋山好古少将率いる騎兵第一旅団がロシア軍に包囲されるという事があった
決定的なピンチ
指令部に入ってくる情報も支離滅裂で訳が分からなくなった。

今度ばかりは直接指示を出す必要がありそうだ。

待てよ。
兄さぁだったらどうするだろう。

大山は軍服を脱ぎ、わざと寝る支度をした
寝間着姿のままで、眠そうな顔で、会議の部屋に入った。

「はー、なんじゃ、にぎやかじゃのう」
「さっきから、大砲の音がしちょりますが、今日はどこぞで、いくさでもやってござるか?」

あまりのとぼけた言いように
一人がクスッと笑った。
するとみんなが笑い出した。

その後、冷静さを取り戻し
各々、的確な行動が取れるようになった。

マッカーサーは、大山の事が大好きだったらしい
戦後、日本軍の銅像はことごとく潰されていったが
大山の銅像だけは、潰さずに残したという

[明治]シリーズはこちら(少し下げてね)

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