[ことば日本史] いずれをあやめかかきつばた

ことば日本史の平安時代から

いずれをあやめかかきつばた

[ことば日本史] ヌエの泣く夜は恐ろしい
で登場した、源頼政で、もうひとエピソード

頼政には以前から心にかけていた「あやめの前」という美女がいた。
鳥羽院のもとにいた女房で、頼政はあるとき一目見て恋におち、
せっせと手紙を書いたが、一度も返事がない

それを知った鳥羽院は、いたずら心を起こし、
あやめの前によく似た女官を二人呼び、三人に同じ衣裳を着せて並ばせた。
「さて頼政、このなかにお前の恋する、あやめがおるぞ、
特別にゆるしてやろう。連れてさがるがよい」

頼政はあせった。ただ一度遠くからちらりと見たことしかないのだ。
形からあやめの前を見分けることなどできない

うーん
とはいえ、ここで間違えては今まで何だったの?って話

悩んだ頼政は、歌を詠んだ。

五月雨に 沼の石垣 水越えて いずれかあやめ 引きぞわずらふ

(五月雨によって増水した池で、 どれがあやめやらわからなくなって、
引き抜くことができず悩んでいます。 )

みごとじゃ
鳥羽院は、頼政の機知を褒めて、あやめの手をとって頼政に授けた。

武将にして歌人であった頼政の文武両道に優れたことを伝えようとした伝説だろう

あやめ、花菖蒲(はなしょうぶ)、かきつばた。すごく似ています。
ウォーキングイベントやっていると、花菖蒲の季節には各所の菖蒲園に行くのが定番です。

花菖蒲と菖蒲もまた別物なんですが
あやめの伝説は、菖蒲に繋がるものと考えられるでしょう。

今も五月の節句に菖蒲湯に入るように、その剣状の葉に破邪の呪力があると考えられていた。
また一方で、それは蛇精であり女のシンボルでもあったのです。

平治元年(1159)に義朝らが反平氏のクーデターを起こした平治の乱では、
源頼政は義朝らと離反して平清盛につき、
以後、異例の出世をとげた

その前の保元の乱でも勝った側です

しかし、治承4年(1189)には、今度は平家を倒す側に回る
以仁王の平氏追討の令旨に応じて挙兵、
[源平]8 神戸に都を?
でも残念。宇治で敗死する。
七十七歳だった。
この歳で勝負に出たんだから大したもんです。

分かりました?
勝負と菖蒲をかけてみました。

ちなみに、娘は二条院讃岐
百人一首にも選ばれています。
わが袖は 潮干に見えぬ 沖の石の 人こそ知らね かわく間もなし

[ことば]シリーズはこちら(少し下げてね)

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