世田谷城跡に行ってきました

豪徳寺に行ってきました
の続きです。

実は豪徳寺の場所も昔は世田谷城でした。

世田谷城

以前来たときは、空堀が見事に残っていたことに感激
松陰神社から豪徳寺

再度来たからには、もう少し深堀りしましょう。

世田谷城が誰の城だったかというと吉良(きら)氏
室町時代になります。

吉良氏はすごい家柄
鎌倉時代に遡って、足利家3代目当主、足利義氏の息子の長氏が分家したのが吉良氏
ということなので、足利氏とは親戚

江戸時代に徳川御三家ってありますね
徳川宗家に跡継ぎが出来なかったときのスペアとして、尾張、紀州、水戸
実際に、紀州からは吉宗や家茂が将軍になっています

室町時代にその役割を果たしていたのが、御三家まではなくて御一家
そのひとつだけが吉良家なんです。
さらに吉良家がダメなときのスペアが今川家

吉良ってあの吉良上野介?
合っているような合っていないような

吉良家も分かれて三河の吉良家と奥州吉良家に分かれます。
吉良上野介は三河吉良家
奥州吉良家は江戸時代には三河吉良家に遠慮して、蒔田に名前を変えるんだけど
討ち入り後、三河吉良家が断絶するので奥州吉良家が吉良家に戻ります。
そんな奥州吉良家が、この世田谷城の城主

その後、関東一円は、北条氏が制圧しますのでその北条氏の傘下に入り
小田原攻めで、豊臣秀吉に敗れたあとは、取り潰しという経緯

さあ参りましょう
豪徳寺も含め、どでかい敷地が全部世田谷城
その中でオレンジに色付けしたところが世田谷城跡公園として残してくれています。
(あとで説明する都営住宅は水色の部分)

イメージ図でいうと、公園部分はオレンジ部分。水色は都営住宅

再現模型ではこう

GoogleMapの航空写真ではこう

さあ、公園で想像を巡らせましょう。

階段や石垣はあとでつけたもので、当時はありませんでした。
イメージ図からすると一番上ではないのに結構の高さに登ります。

やはり一番感動するのは空堀

イメージ図を見ていただけると一番分かりやすいかな
空堀という事なので、戦国時代後半の天守閣のある城ではなく、堀に水もありません
石垣は後に崩れないようつけたもので
当時は土を盛っただけでこれだけの急斜面を実現させました。
確かに攻め辛い

高くなっているところから見下ろすとこんな感じ

本来公園は、もう少し北側までなんですが、危険であると、途中で通行止め

なんとか回り込みたい

ぐるっと周辺を歩いてみるもなかなか入り口が見つからない
結局豪徳寺まで戻ってきた。

以前タモリの番組で徹底解説をしたとネットに出ていたんだけど
その時、都営住宅が云々と

あっここから入っていけるかも

先ほどから水色で示していた要塞部分が都営住宅
確かに結構登ります。

敷地内を公園側に歩くと、土盛があり

その向こうが、急崖でとても深い空堀

確かにこれを登るのは至難の技
上からツンツンつつかれて、ヒエーッ

世田谷城といえば、ああ悲しき常磐姫の物語
妬みから無実の罪を着せられ、自害に追い込まれる
常磐姫は鷺となって飛び立ち
その跡地には鷺草が生えるようになったのでございます

さぎ草伝説。その1
さぎ草伝説。その2

代官屋敷
イベントの時のランチの場所も見つけ、次なる場所

3度目の正直
過去2度来ているのですが、工事中や時間外で入れずじまい

よっしゃぁ今度こそ

代官って「おぬしも悪よのう」でお馴染みですが
あの時代劇には違和感

大きく江戸とそれ以外に分かれるんですが
江戸は町奉行が治める。
大岡越前とか、遠山金四郎とか

それ以外は、代官
10万石以上だと、郡代と呼ぶんですが。
都知事と県知事みたいなもんでしょうか

ということなので、無茶苦茶えらい人
時代劇で、江戸が舞台になっているようにおもえ

そのお屋敷が残されているという事です。

ヒエーッお代官さまーっ

いやあ、びっくり
色々、わらぶきの古民家は見てきましたが
さすがはお代官様。格が違います。
こんなどでかいのは見たことがない




すごい。お白州まであるんだ


この桜吹雪がだまっちゃいねえ

[お出掛け]シリーズはこちら(少し下げてね)

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