水戸藩。水戸黄門は何人いる?

尾張藩、紀州藩ときて
最後の御三家、水戸藩。

水戸藩って余りにも話題が多いんでどうしたもんか
すでにかなりお話ししたことも多いので
リンクを貼りつつ進めていこうと思います。

上屋敷は小石川後楽園
中屋敷は東京大学本郷キャンパス内。
下屋敷は浅草近くの隅田公園です。

水戸光圀
水戸家と言えば一般的には、さっと思い浮かぶのは、水戸光圀(みつくに)です
チャンチャカチャチャンチャカチャ
人生楽ありゃ苦もあるさ

この紋どころが目に入らぬか!

残念ながら、諸国漫遊はしていなかったというのは有名な話だが
じゃあなぜ、水戸黄門の俗説が生まれたんでしょう。

やっぱり、光圀は人気があったという事でしょう。

若いときは、完全に不良少年。
荒れ狂って、辻切りとかもやった。

ところがあるとき、中国の史記を読んで、突然、学問に目覚める。

学問、おもろぅ。
今後は心を改めよう。

その後、ありとあらゆる文化事業に思いっきり金をかける
その中心になるのが「大日本史」
神武天皇以降の日本の歴史を明らかにしましょうという
壮大なもの

光圀の代だけでは終わらず、
その後の代々の水戸藩に受け継がれ
200年以上かけてようやく完成

そこまで気合い入れば、どうしたって天皇のことが好きになるでしょうね
水戸学の意味が分かります。

新しい文化、特に中国の文化を色々取り入れたので
日本で初めてラーメンを食べたのは光圀
いくつかの「はじめて物語」があります。

水戸学
「もし徳川宗家と朝廷との間に戦が起きたならば躊躇うことなく帝を奉ぜよ」
水戸藩に代々伝わる秘密の教えです。

この事は、幕末、水戸藩がかなり中心的役割を担うことに通じていくんですね。

光圀が史記を読んでなければ、大日本史もなかったでしょうし、
水戸学という考え方も生まれなかった。
慶喜が朝敵になりたくなくて、大阪から逃げ帰る事もなかったかも知れません。

明治維新がならなかったとは言いませんが
かなり違ったものになっていたかも知れません。

水戸黄門
水戸家って御三家の中では若干格下。
他の2家の藩主は大納言なのに
水戸家の藩主は中納言なんですよね。
大納言、中納言は朝廷での役職名

ところで水戸黄門って何人いるか分かります?

えっ、一人じゃないの?

違うんだなぁこれが。

実は「黄門」とは中納言のことを中国でこういう

頼房(初)・光圀(2)・綱篠(3)・治保(6)・斉脩(8)・斉昭(9)・慶篤(10)
と全部で7人「水戸の中納言」がいるので、
7人の「水戸黄門」がいることになります。

石高
領国の石高は実収が28万石程度なんだけど
御三家なんだからという理由で
35万石ということにしよう

これは水戸藩の財政を厳しくする一因になります。

定府
水戸藩の特殊性としては、定府(じょうふ)ということがあげられます。
参勤交代しなくていい。
ということで、江戸中期以降の藩主はそもそも水戸に行ったことがなく
江戸の小石川等でずっと暮らしていた。

藩内でも、ずっと江戸にいる人達は水戸を田舎もん扱いし
逆に水戸の人達は、江戸の人達に反感を持っている。

桜田門外の変で、藩士が暴走し、松戸辺りで江戸組水戸組の双方がにらみあいしたのも
ここに遠因があります。

幕末
もろもろの背景を踏まえ、幕末には、中心的役割を果たします。

まずは、徳川斉昭(なりあき)
幕府に多大なる影響力を及ぼします。
[徳川名参謀]13 家定→徳川斉昭

そしてそのあと
あの、桜田門外の変を起こした
[徳川名参謀]14 家茂→井伊直弼。桜田門外の変1
[徳川名参謀]14 家茂→井伊直弼。桜田門外の変2

この流れでいくと、幕末の主役にいそうですが
幕末の中盤以降は、薩摩、長州に主役を取られ表には立っていない。
幕府側に回っちゃったからですね。

徳川斉昭の息子、慶喜が将軍になっちゃった。
倒される側になっちゃったんですね。

不思議なもんです。

光圀が作り上げた、ことがあれば幕府より、朝廷につくべし。の気風。
それがあったので、幕末の序盤は水戸藩が中心になって事を起こした。
幕府にたてついた。

でも斉昭は自分の子供を将軍にしたくて画策して。
結果としては功を奏して、幕府側に回っちゃう。

でも、慶喜には水戸学が染み付いているので
幕府より朝廷の気持ちをベースとして持っている。

大政奉還って慶喜にしてみれば「待ってました」
私が幕引きしましょう。

水戸藩の慶喜だからこそのこの幕末の歴史なんだと思います。

慶喜の話についてはいっぱい書いていますので、よろしければ。
15代慶喜、天才過ぎて
以降6回シリーズです。

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