[名僧]聖徳太子

新しいシリーズを始めます

仏像の見分け方シリーズで、仏様の観点で仏教を見てきました。

今度はお坊さんの観点から見ていくとどうなるかな

一旦、日本の仏教に限定しようと思います。

でーこん流坊主めくりというところでしょうか。

いくつか仏教の本は読んでいますので
例によってぐちゃぐちゃっとでーこん的にいきましょう。

最初は聖徳太子

名僧シリーズにしたいので、最初のタイトルが[名僧]聖徳太子、になっちゃいました。
僧ではありませんね
はいそうですけど
歴史を追っていく観点で言うと、初期の日本の仏教でこの人抜きには語れないので
ちょっとご勘弁

聖徳太子
日本に仏教が伝来したときの天皇は欽明(きんめい)天皇

こんなん来たけど、みんなどう思う?

物部氏(もののべし)は
日本には立派な神道というものがありますので
そんなの邪魔です。

蘇我氏(そがし)は
私は良いと思うなあ
要は内容次第じゃないですか?

それじゃあ、仏教のいろんなものを
蘇我さんに預けるから
研究してみてよ

はーい

面白くないのは物部氏

欽明天皇の次の用明(ようめい)天皇の代になりました。
用明天皇は聖徳太子のお父さんね
在位は短く、天然痘で死んじゃうんですが
それまで立場をはっきりしていなかったんですが
死の床で
仏教にすがりたいなあと行っちゃった。

勢い付いたのが蘇我氏
反物部氏で連合軍を結成し
一気に物部氏を滅ぼしてしまおうと戦争を起こします。

聖徳太子は
2歳のとき、お母さんに抱かれた聖徳太子が
「南無仏」と2回称えて、合掌
ってくらいだから仏教マニア
蘇我氏の親戚でもあるので、蘇我氏側

物部氏は元々戦争が得意なので
一筋縄ではいきません。

連合軍って言ったって寄せ集め
仏教うんぬん言っているけど
結局は単なる主導権争いなんじゃないの?
とみんなが疑問を持ち始めたとき

当時14歳だった聖徳太子
木でささっと仏像めいたものを作り

四天王よ、我に力を与えたまえ
この戦いに勝ったあかつきには
四天王寺を建立することにいたしますので何卒

みんなが、そうそう仏教だったと思い直し見事勝利
若くして人心掌握術に長けていたということです。

約束通り、四天王寺を建てました。

ちゃんと守るのね、と
人気が高まり
みんなの気持ちは、蘇我氏より聖徳太子に向いていくのでした。

四天王寺
四天王寺と言えば、面白いものがあります。

寛弘4(1004)年、聖徳太子没後、400年ほど経って
『四天王寺縁起』と呼ばれるものが見つかった。

なんと、聖徳太子の直筆で、手形まで押されていた。

内容がまた、衝撃的。

この四天王寺のある場所は、かつて釈迦が説法をして人びとの迷いを解いた地である。
だから私は、四天王寺を建立したのである。
この寺の金堂と塔は、極楽浄土の東門の中心にあたる。

金堂に安置されている救世観音像は、私が死んだ後、
百済の王が私を恋慕してつくった像である。

私は物部守屋を倒したが、その後もずっとあいつは転生をくり返し、
私につきまとい、仏教を興隆しようというときに、必ずそれを邪魔するであろう

はぁ?
笑えますね
聖徳太子直筆の書にして
「私が死んだあと」ってあなた

もちろん、偽物に決まってますが
これが発見されてからというもの
聖徳太子人気が大沸騰

四天王寺は極楽浄土の東門なのか
ここにお参りしたら極楽浄土に行ったも同然
聖徳太子おん自らそう言っているんだから間違いない
と、四天王寺も大人気

予言書もあって
いついつ戦争が起きるであろう
聖徳太子が生きていた時に、
そんな事まで分かっていたのか!

これもぴったり当たっていたから
みんな信じちゃった

あとから書いたら絶対当たりますけど

法隆寺
聖徳太子と言えばもうひとつ、法隆寺

聖徳太子が作ったと言うことになっています。

聖徳太子の死後、慕う人達が
救世観音像を聖徳太子の背格好と全く一緒に作った。

ところが、何を思ったか
白い布でぐるぐる巻

何度か、ほどこうと試みた人がいるんだけど
その都度不吉なことが起き、そのままに

とうとう明治10年になっちゃった

苦労して、長い布を取り除くと
まだ金箔の残る木像が現れた。
千数百年の時を経て、このような保存状態を保っているのは奇跡に近い

聖徳太子が守ってくれたんだね

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