[ことば日本史] 一国一城の主

ことば日本史、江戸時代から

一国一城の主(あるじ)
徳川幕府は、元和元年(一六一五)四月の大坂夏の陣によって豊臣家を滅ぼすと、閏六月、諸大名に対して「一国一城令」を発した。
それは、分国ごとに、現在の居城のみを残して、他の城はすべて破却するように命じたものである。おもに西日本の大名に命じられ、数日にして約四百の城が壊されたという

一国一城令と同時に発布された武家諸法度(ぶけしょはっと)では、居城の無断修補や新築の禁止など、城郭に関する規定が具体的に定められ、幕府の大名統制をより一層強化しました

こうして一つの国には一つの城という前提ができて、「一国一城の主」という表現もできました

福島正則は、武家諸法度で禁止されていた城の修復を無断で行ったため改易させられてしまいました

最初は、決められたルールとはいえ、運用は結構ゆるかったんですが
かなり強固に運用されるきっかけとなったのが、島原の乱でした
一揆軍が立て籠もったのが、廃棄されたはずの原城跡だったからです

私の一国一城の主
この言葉、結構使った気がする
短い人生、一度は一国一城の主になってみたい
宅配寿司で経験した「社長」という特別な存在

私は波瀾万丈の人生。
でも、
いつが一番良かったですか?
と聞かれたら
今です
と答えていた
ほんとにそう思いながら生きてきたから

でもやっぱり、この一国一城の主だった5年半は特別なものだった
あれから随分経つのに、
何度夢を見たろう
宅配寿司をまた始める夢

夢から醒めて、夢だと分かると
ああ、夢で良かったと思うのに

[言葉]シリーズはこちら(少し下げてね)

[天皇]107-2 後陽成天皇。秀吉から家康

[天皇]107 後陽成天皇
の続きです

結局、秀吉の中国制覇の構想は失敗に終わる
その間も、なにかにつけて、後陽成天皇は秀吉にやんわりと翻意を促した

晩年は、
慶長3(1598)年8月18日、豊臣秀吉は62年の生涯を閉じる
ただし、発表されるのは翌年の正月までなかった

秀吉が死ぬ5日前、後陽成天皇は気分を悪くし、めまいを起こした
その後病状が悪化し、一進一退
回復の様相が見えない中、譲位の意向を明らかにする
すでに決まっていたはずの、長男ではなく、
三男に譲りたいと思う

実はすでに死んでいるものの
秀吉側は長男を推し、つばぜり合いが続く

数カ月後、後陽成天皇は回復

秀吉は死後、「新八幡」として祀られる事を望んでいたが
これも、八幡が天皇の祖先神であることから、後陽成天皇が抵抗
結局、神号は「豊国大明神」に決まる

家康
秀吉没後の政務は、
秀吉の遺言に従って五大老の徳川家康・前田利家・毛利輝元・上杉景勝・宇喜多秀家が担うが
筆頭の家康、次席の前田利家だったが
前田利家が亡くなることで
家康が大きく主導権を持つようになる

そうした状況の中
家康は、独自に朝廷との関係を構築していく

後陽成天皇は参内した家康に常御所で対面
未だ将軍でない家康を受け入れたことで
家康を天下人として認めたことになる

天下が二分され、関が原の戦いが近づいてくると
後陽成天皇は和議を提案している

関が原の戦いで東軍が勝利すると
後陽成天皇は家康のもとに、使いをよこす

徐々に、天皇側と家康側が、距離を縮めていき
慶長8(1603)年
家康が、いよいよ征夷大将軍に任ぜられることになる

それまでは、天皇も豊臣秀頼に気を使って
両にらみ的な動きもしてきたが
征夷大将軍に任じたあとは大きく家康へとシフトしていく

さらに2年後の慶長10(1605)年
家康の息子、秀忠に将軍が譲られることになり
秀忠に対して征夷大将軍が任じられる
ただ、そのことで天下人が秀忠に移ったわけではなく
依然として実権は家康が握っていた

後陽成天皇が家康に近づいていったのは、目的があったからで
それは、自分の意図する三男への譲位
家康は譲位を了承

ただ、現実に譲位がなされるのは、すんなりはいかなかった

公家内での不祥事
なんとか落ち着いて、
再度、家康に譲位の意向を伝えて了承を得る

ところが、近づくと
家康の五女市姫が亡くなったという理由で、延期を通知される
七か条の通知がなされ
不満ならどうぞご勝手に譲位されればよろしいと

残念ながら、勝手に譲位できる資金がない

どうしても譲位したいという意向が強いので
家康に従わざるを得ない
譲って譲って我慢して、全て受けいれた

秀吉の時はあんなにも抵抗していた後陽成天皇も
したたかな家康の前ではなすすべがなかった

ようやく慶長16年1月17日、譲位が実現
後水尾天皇の誕生

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[縄文]3 森をひらきイエをつくる

[縄文] 縄文人は生きている
[縄文]2 ムラづくり
の続きです

森をひらきイエをつくる
5 木を切る
ムラづくりは、はじめからイエや広場、それに墓の場所などの配置をきめてすすめられた。それにはひらかれた広い空間が必要であり、イエをつくるための木材も準備しなければならない。縄文人はムラをつくるために、まず深い森林を切りひらくことからはじめた。
「オーイ! 木がたおれるぞー」
石のオノで大きな木を切るのは大変な仕事であった。ムラびとはみんなで共同して、その作業にあたった。

6 竪穴住居の平面図をかく
縄文時代のイエである竪穴住居をつくるにも、
きまった方法があったと考えられる。
それは発掘されたイエの跡をよくみると、
平面の形が中心をとおる線に対して左右対象になるものが多いし、
同じ時期のイエをくらべてみると形やつくりがよく似ている

これは竪穴を掘るまえに、かなり正確な平面図せいかくを地面にえがいて形をきめていたためと考えられる。

7 竪穴を掘る
竪穴の広さは約30平方メートル、深さは約50センチメートルで、
それを掘るには、
石を打ち欠いてオノのようにつくった打製石斧と呼ばれる
土掘り具がつかわれた。
掘りあげた土はそのまますてないで、竪穴のまわりに積んで、
イエのなかに雨水などがはいらないような工夫がなされた。

8.9柱をたてる・柱組の完成
竪穴のつぎは、屋根をささえるために、竪穴の床面に柱の太さよりひとまわり大きく、柱の根を埋めるための、
深さ約50センチメートルの穴(柱穴)を掘る。
柱(主柱)の数は四本から六本というのが普通である。
柱には直径約20センチメートルくらいの、
まっすぐな丸太材がつかわれた。
垂直に立てられた柱に、
たる木と呼ばれる木をわたして屋根の形をつくると柱組の完成である。屋根は「寄棟(よせむね)造り」か「入母屋(いりもや)造り」 に近い形をとり、
出入口はひとつであったと考えられている。

「その縄をとってくれ!」
材木は植物の繊維を撚ってつくった縄や、
丈夫な木のつるで結びつけられ、組みたてられた。

10カヤをふく
最後に、屋根にカヤをふいて、一軒のイエが完成した。
「よし、これなら雨ももらないだろう」
竪穴住居は湿気の多いのが欠点だが、夏は涼しく、冬は暖かで、
思ったよりもすごしやすいイエだ

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[神社] 庚申様。なぜ廃れたのか

日本の神様シリーズのうち、古事記日本書紀以外の神様

庚申(こうしん)様

庚申塔(こうしんとう)については今まで何度か書いています
東京中をウォーキングするようになって驚いたことがいくつかあります
その中でも、富士塚と庚申塔は双璧だと思います
ウォーキングする前は存在だに知らず
イベントで富士塚や庚申塔を教えてもらった

最初の頃は
この前あった、富士塚ここにもあったね
庚申塔ここにもあるね
程度だった

回を重ねていくうちに
特に庚申塔はあるわあるわ

珍しいものではなく
そこいらに普通にあるもの、という感覚
ウォーキングしないと絶対に分からない感覚
3200箇所歩くと、「庶民の信仰」というものが見えてくる

見えては来るものの、やっぱり不思議
なんでそこまで庶民に庚申が浸透し
我も我もと庚申塔を建てたのか

まずは、庚申信仰って何かからもう一度

庚申
日って、60日周期
干支(えと)というんだけど
一般的に干支と思われている、年賀状に書く動物は、十二支(じゅうにし)
「子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥」
さらに十干(甲(きのえ)、乙(きのと)、丙(ひのえ)、丁(ひのと)、戊(つちのえ)、己(つちのと)、庚(かのえ)、辛(かのと)、壬(みずのえ)、癸(みずのと))と組合わさり、陰陽を考慮して60通りになる
干支はここにもあそこにも
60日に1回やってくる、庚申の日
道教では体の中に3つの虫がいて、庚申の日に寝ている間に体から抜け出して天に報告に行く
うちのご主人さん、この60日の間にこんなおかしなことしてましたよ

まずい
やましいことのある人は、夜通し寝ないで起きてようということになるんだけど、一人で起きてるのはきついので
仲良しグループで集まって飲み明かそう
それが庚申待(こうしんまち)
必ずしもやましい人ばかりって訳じゃなく、飲み会の口実
3年間18回位続けると、よくやったね
3年間健康で過ごせたね、って事で庚申塔を立てる
庚申塚ってなんだろか

なぜ廃れたのか
庚申の話は過去に何度かしているので、
今回は廃れた方について話したい

そんなに浸透していたなら
今もある程度その習慣が残っていそうなもんだけど
仲良しグループで次の庚申の日にパーティしようぜなんて話は聞いたことないし
町内会で金を出し合って庚申塔を作ろうという話もない

AIさんに聞くと、明治になって急速に廃れたらしい
根拠のない迷信なので、ということなんだけど
根拠がないから迷信なのであって
迷信が残っている例はいくらだってある

ここからは私の推論だけど
明治6年に廃れたんだと思う
明治6年に太陽暦が採用された
それまでは太陰太陽暦
月の満ち欠けは30日だけど、それがすなわち日だった
何月でも15日は満月。三日月なら3日
月さえ見れば何日かすぐ分かる便利なシステム
それが今度は太陽の周りを循環する365日を12で割ることになった
月は月と言えども、月の満ち欠けと関係なくなった

おそらく明治5年までは、60日に1回やってくる庚申の日は分かりやすかったんじゃないだろうか
明治6年に、庚申の日を意識するのが難しくなった

太陰太陽暦はひと月が29.5日、30日か29日かで大の月小の月
太陽暦はひと月が30.4日、31日か30日かで大の月小の月

それだけ見れば大して変わらんじゃないかと思う
違うのは暦(こよみ)の役割と人々が暦(こよみ)に対する意識の違い

太陰太陽暦は太陰暦の後ろに太陽がついているように
月の動きだけで暦を作る訳じゃない
太陽の365日も意識し、年はやっぱり365日
季節は365日ごとにやってくるから
そっちも意識しないと農作業ができない
5月20日に田植えをしたとして、翌年はもうズレていて同じ日に田植えはできない
太陰太陽暦の場合、調整するため、1年が13ヶ月の年もある
実は昔から農作業のため、太陽暦も併用している
365日を24で割ったものがあって、それが二十四節気と呼ばれるもの
夏至とか大寒とか啓蟄とか
月の満ち欠けから割り出した何月何日は二十四節気で何に当たるかという換算表が必要で、それこそが「暦(こよみ)」と呼ばれているもの
今のカレンダーとは全く役割も違うし、人々が暦を重要視する度合いが全く違う

明治5年までは暦は毎日意識している重要なもので
そこに60日周期の干支も書いてあるから、誰でも庚申がいつか分かった
急に明治6年に暦(こよみ)が意味をなくしてしまい
庶民が庚申の日を意識できなくなった

どうだろう、この推論

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